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zoom RSS 愛宕山と明智光秀と本能寺 その2

<<   作成日時 : 2006/08/16 21:10   >>

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さて 信長より対毛利戦出陣を命じられた光秀は 天正十年(1582)旧暦5月28日 亀山城から明智越えで 愛宕権現社(写真)へ登り 里村紹巴らと百韻連歌を催した
 その時の歌が有名な「ときは今 あめが下知る五月哉」 これから起こることを考えるとすこし出来すぎの感がある
しかも ここでおみ籤を何回も引いたといわれています(一説には籤をひいたのは月輪寺とか) とにかく光秀は6月2日早暁 本能寺で信長を謀殺します 
なぜ光秀は謀反をしたのかはさまざまな説がありますが ここは一番無難な話として述べます 
 光秀は美濃源氏の名族 土岐氏(美濃守護)の支族明智氏です そのことは当時でも既成の事実で もちろん 信長や家康 ましてや秀吉など足元にもおよばない名門です 
光秀は源氏一門の復興を考えていたはずです つまり源氏の長者(将軍)が治める体制です そのためには信長は力になると.....しかし信長はあまりにも英雄すぎた 落ちぶれた足利将軍家は追放したままだし 比叡山は焼き討ちするは 長島では虐殺 浅井氏 朝倉氏 武田氏 名門だろがなんだろうが根だやしにする はては天皇まで安土城へ御幸させようとした
 つまり信長にとって実力こそがすべてなのです 生まれからして名門源氏の一族を自負して これまでの秩序の中で生きていこうする光秀とどこの馬の骨とも知らない成り上がり者たち
 うまくいくはずがありません 
本能寺の変の時光秀はすでに50歳半ばだったといわれています 個人的なというより 源氏一族を代表するという気持ちがあったのかもしれません 

閑話休題
私が興味を持っているのは光秀の謀反ではなくて本能寺の変当日 明智軍1万3千の軍が老ノ坂を越えるときにどのルートを通ったかです
考えられるルートは3つ
1は 現在の国道9号線 これは明治以降に整備された道ですが 古くからあったかどうかはっきりはわかりません
2は 旧山陰道老ノ坂越 これはもともとの街道で いまは通行出来なくなっています わたしも行けるところまでいきましたが 歴史の道として整備してくれたらと思います
3は 唐櫃越 これは足利健亮氏の説(考証 日本古代の空間 1995年  地理から見た信長 秀吉 家康の戦略 2000年)

山陰道 野条で軍団を整えて出陣した1万3千 どのように老ノ坂を越えて 本能寺へいったのでしょう (伝記などでは軍団を3つに分けて それぞれ明智越から唐櫃越を経て三条と山陰道老ノ坂峠越を経て沓掛へのルートが示されいます)
考証・日本古代の空間
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さつき
2006/08/16 22:20

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