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zoom RSS アテルイ 「阿弖流爲」の首塚 探訪記 その2

<<   作成日時 : 2007/06/14 01:42   >>

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降伏したアテルイたちに 新都 平安京を見せようとした田村麻呂は
アテルイとその副将モレを連れて802年7月凱旋した

東国 蝦夷の悪鬼を一目観ようと貴賎を問わず 
都人は 恐れおののきながらも都大路に群がった

眼もくらむような 平安京とあふれ出る都人を
初めてみたアテルイたちは何を想ったのだろうか
互いに 死力を尽くして戦った 兵士どうし 何か通じるものがあったのか
アテルイは 内裏に参内する前の田村麻呂に面会を求めた
「われら  陸奥へ帰り もはや 戦は無用と 皆の者たちに告げよう」
田村麻呂は アテルイの申し出に うなづくと 
その願いが実現するよう約束した

しかし 田村麻呂の進言もむなしく 殿上人たちは 
アテルイたちの即刻 処刑を決定した

同年8月 羅城門から 鳥羽作り道を南下 男山を越えて 
河内国に入ったあたりでアテルイとモレの2人は 頸を刎ねられた

画像

雨が上がり 晴れ間も見えてきました
これが 牧野公園内にある 伝アテルイ・モレの首塚の全景です


画像

いつの間にか 立派な石碑が建っています  


画像

以前は この 何が書かれているのかわからない 
石碑だけだったのですが

さて 本当に この塚はアテルイたちの首塚なのでしょうか 
この塚は 一応 現在 牧野坂の塚(牧野阪古墳は首塚の東側にあったが 今は現存していない)と呼ばれています さらにこの近くに 宅地造成で消失した宇山一号古墳 二号古墳がありました 
それが 胴塚と呼ばれており 牧野坂の塚(牧野阪古墳?)の首塚とあわせて
いつしか アテルイたちのものとされてきました

アテルイたちが 処刑されたのが 河内国の 植山(椙山・杜山)
と記載されており それがこの付近の故地名 上山(宇山)じゃないかと 
それで 牧野阪古墳(牧野坂の塚)を首塚に 宇山古墳を胴塚にした訳ですね 

残念ながら 宇山古墳の方は 発掘調査の結果 アテルイの時代よりも
200年古いものだそうです 牧野坂の塚(牧野阪古墳は年代不明)も実際に古墳だとしたら 
宇山古墳と同年代ではないかといわれています

アテルイが処刑された時には すでに片埜神社はこの地にあり 
まさか 神社の敷地内に首塚を造る訳ないよ・・・ね

                                         

                                                   おわり
   

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
はじめまして 歴史が好きな中学生でなぎさといいます
なぎささんのブログは面白いので時々見ています
わたしの父は東北出身です 
アテルイとかの蝦夷の人たちはどんな人だったのですか
わたしも蝦夷の末裔だと思うと興味があります
「なぎさ」です
2007/06/14 18:57
コメントありがとうございます
返事がおくれてすみません

私は淀川の水を飲んで暮らしていますが
実は先祖代々の出身は 大隈国は霧島の麓です
今も一族が暮らしております 
母方のほうも先祖代々 日向国です
私は熊襲(隼人)の末裔として自分の中に 
熊襲の血が流れていることに
誇りをもっています

きっと アテルイたち蝦夷の人々も誇りをもって
生きていたとおもいます
なぎさの民俗学者
2007/06/28 10:16

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