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zoom RSS 伊勢物語 渚の院(渚院)のこと

<<   作成日時 : 2008/04/27 19:16   >>

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今から 千年以上も前の平安時代の始め頃に書かれたといわれる伊勢物語  その物語の第八十二段に 惟喬親王(844〜897)が親しい右馬頭(同じく桓武天皇737〜806の系統の在原業平825-880とおもわれる男)たちと桜の咲く季節に 鷹狩りのために片野ヶ原に来た折 渚の院の桜がたいそうすばらしかったので この桜を見ながら歌よ詠むことにしたと書いてあります その時に右馬頭が詠んだ歌があの有名な

             「世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし 」です

この歌の意味は 「なんで桜(の花)が咲く季節があるんだ 咲いたとおもえばすぐに散る なんともこの季節(春)は無常であることだ いっそのこと春に桜の花など咲かなければ 無常を感じることもないのに・・・・」ということですが 右馬頭が嘆く歌を詠むと・・・・

注・・・意訳では「世の中にもし桜がなかったら 春の人の心はのんびりするであろうに」ですが 業平ともあろう人がこんな平凡なあたりまえ?のようなことを本気で歌に読む訳がありません 当時(平安時代〜)は仏教でいうところの無常観が文学 芸術 思想に影響を与えていました 桜=無常です この無常観を踏まえた上で 自分たちの境遇をも暗に仄めかしている?と思われます



別のある人が

             「散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか久しかるべき」と読みました

この歌の意味は 「そう嘆くもんじゃありません 桜の花は 必ず散るからこそ 咲いている間が貴重なのですよ 人も必ず死にます 死ぬとわかっているから 無常を感じるのでしょうが ならば 生きている(咲いている)この時を おおいに楽しみましょう  人の一生も 桜の咲いている間も そんなに長くはないのですから・・・」と返しました

惟喬親王たちは 桜の咲くいい季節になると 水無瀬の別宅からこの渚の院あたりに遊び(鷹狩?)に来ていたといいます 

惟喬親王(文徳天皇の皇子 惟仁親王と皇位継承争いに巻き込まれて 一度は天皇になれるところまできていたのだけれど 藤原氏の権勢の前であえなくポシャってしまう)が 失意の中で 枚片野(現在の枚方・交野)に在原業平(右馬頭)たちと遊んだ時 別荘に使ったというのが渚の院(渚院)といわれています
 



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       伊勢物語絵巻 下巻 第八十二段 渚院 紙本著色本異本 室町時代 東京国立博物館蔵




それでは一体 伊勢物語に書かれてある 渚の院とはどんなものだったのでしょうか 惟喬親王の本宅は 平安京内の小野宮(京都市中京区松竹町付近 平安京名邸のひとつ)ですが これまでの多くの解釈本では 「水無瀬宮(三島郡島本町広瀬 跡地が後に造営されて後鳥羽上皇(1180〜1239)の離宮となるとされている)の別邸から渚の院の別荘へ行く」と 渚の院があたかも親王の立派な?別荘だったように書かれています  しかしながら これまでの 渚の院跡とおもわれる場所の発掘調査では 別荘となるほどの大型の建物跡はなにも見つかっていません 「渚院跡遺跡 調査概要報告1982」 枚方市教育委員会
さて 御殿山神社由緒書では 光仁天皇(709〜782)が交野ケ原に行幸されたとき頓宮が置かれたとあります まだ 平安遷都以前ですが この辺りは既に禁野(天皇家の領地で狩り場)でした その入り口に頓宮が置かれたわけです 平安遷都後は 桓武天皇や嵯峨天皇(786〜842)などの別荘が置かれましたがこれが現在地の渚院跡かどうかわかりません 交野ヶ原の南側の丘陵地には桓武天皇と縁のある帰化人の百済王氏の本拠地でした さてこの頓宮あるいは別荘が使われたのは1205年の後鳥羽上皇の行幸が最後とされています
時代が下って渚の院跡には後に観音寺・粟倉神社が建立(鎌倉時代?)されましたが 粟倉神社は1616年に小倉村に遷宮 渚の院のは西粟倉神社(御旅所)と称したが明治初年の神仏分離で観音寺は廃寺になり 西粟倉神社も新たに 御殿山へ遷宮して御殿山神社となり 現在渚の院跡には 鐘楼と鐘だけが残っています





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                       渚院跡  河内名所図会 江戸時代





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  河内名所図会で観音寺の前に描かれている古道 この先に渚の院跡があります 白い建物のあたり





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公園と保育所と公民館と民家に囲まれた わずかなスペースに 渚の院跡が・・・・





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            枚方教育委員会の説明板 写真を拡大してください





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                      反対側の公民館横





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渚の院跡には 観音寺の鐘楼が残っています 




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江戸時代に鋳造された鐘は河内惣官鋳物師 枚方田中家の作  この鐘は皇室と関係があるとして戦争中に徴用されなかったと言われています 伊勢物語様様ですな(笑)






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鐘楼の奥には「渚院」の顕彰碑と五輪塔があります  この碑は1661年この牧野村一帯の領主だった永井伊賀守の家隷 杉井吉通が建立したもの 古今集や伊勢物語を愛読していたのだろうか・・・

注・・・淀川の対岸 西国街道(山陽道)伝桜井の駅跡近くに 待宵小侍従(1120〜1201)の墓があり そこにも顕彰碑があり 摂津高槻藩藩主永井 直清が1650年に建立しています  それで 渚院の碑の永井伊賀守というのは  直清の兄で山城国淀藩主 尚政の三男 永井尚庸です お父さんや叔父さんが立派な人だったので それにあやかろうと?と渚の院跡にも顕彰碑を建てさせたのかもしれません  待宵小侍従は 藤原定家らと交流したりして千載集や新古今集に載るほどの歌人です







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そして  業平の 「世の中に たえて櫻〜」の歌の碑  桜の花を人(惟喬親王?)の人生の儚さ 無常にたとえて
詠んだといわれていますがどうでしょう





このように 現在の渚の院跡には 当時を偲ばせるような遺跡は残っていません  この近くに 行基が開基した49ヶ院のひとつ 久修園院(河内国交野郡一条内 現在の大阪府枚方市楠葉中之芝の久修園院に比定)や49ヶ院以外だが 報恩院(河内国交野郡樟葉郷 大阪府枚方市樟葉付近だが比定寺院は不明)などがあり もしかしたら渚の院も その名称から 行基建立は別として そういった 寺院のひとつだった可能性もあります(後に頓宮や別荘として利用) 惟喬親王たちは渚の院からさらに 日暮れて 天の川あたりまで来て酒肴を楽しんだ後 渚の院には泊まらずに水無瀬まで帰っている このことから 渚の院は 施設が整っていた親王の別荘というよりは 後に観音寺に引き継がれる簡素な寺院だったのではないでしょうか(当時 行基が架けた山崎大橋が修復されて(850年)架かっていた?ので 短時間で水無瀬まで帰ることはできたが・・・・)




時代が下り 土佐での国司としての任期を終えた紀貫之(?〜945?)が 土佐日記の中で 京への帰国の折 淀川を遡る船のなかから 渚の院を眺めたことを書いています

      かくて、船曳き上るに 渚の院といふ所を見つつゆく
      その院 昔を思ひやりて見れば おもしろかりける所なり
      後へなる岡には、松の木どもあり、中の庭には 梅の花咲けり
      ここに 人々のいはく これ 昔 名高く聞こえたる所なり



古今和歌集の選者であった 紀貫之はどのような感慨をもって 渚の院跡?を見たのでしょうか ・・・





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渚の院跡の裏を流れる黒田川 当時はこのあたりまで 淀川の汀線があったとおもわれますので 紀貫之は間近くで渚の院を見たでしょう   道標は明治時代の京街道(国道2号)のもの





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       渚の院の「後へなる岡」  今はもう松の木はありませんが 桜の木があります





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        「後へなる岡」 今の御殿山です  





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明治時代中頃の写真 御殿山から渚院跡を望む 遠く淀川と京街道の堤が見えています 写真中央に 観音寺の鐘楼があり その前を古道が通っています  御殿山には桜ではなく 土佐日記の記述どうりに松の木がありますね



惟喬親王たちが 渚の院から さらに 天の川のほとりまで どの道を通って行ったかは興味のあることですが 淀川沿いの道は 京街道が出来るまではなかったでしょう  古道として残っているのは 渚の院跡の前を通る道で御殿山の丘陵沿いに一旦 丘の上まであがり 百済王氏建立の百済寺があったあたりで ここから下におりて天の川に接しています もちろん平安時代もそうだったかは わかりませんが・・・・     





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    おまけ   御殿山の上の公園




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    おまけ2  御殿山の御殿山神社





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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。渚の院についてとてもよくわかりました。例の有名な在原業平とおぼしき方の桜の歌、後ろに返す歌があることから、この記事の解釈なんでしょうね。前に業平関連のことを書いたときに変な解釈をつけたので、私の方のは注意書きをいれ(笑)、この記事へのリンクをさせていただければ幸いです。昔一年のころ、部活のお花見の席とりで何時間も前から座っていたことがあり、「ああ、世の中に 絶えて桜のなかりせば、新入りの心はのどけからまし」と思ったものです。
サファイア
2008/04/27 23:27
渚の院のことはあまりにも近所のことなので 今まで書かないでいたのですが 今年も見事に桜が咲いたものですから・・つい・・ 業平の歌の解釈は人それぞれでいいとおもいます あまりにも業平のウケを狙った歌に後世の人は迷わされていますね それはそうと 大原の里に行かれたのですね すぐ近くに惟喬親王のお墓があるのですが・・・いゃあ 別にいって見るほどのもんじゃないです わたしも長い間 大原にはごぶさたしてますので 近いうちに行こうかな・・・・
なぎさの民俗学者
2008/04/28 18:15

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