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zoom RSS 真田幸村(信繁 ) 討ち死にの事 茶臼山〜安居神社 天王寺界隈

<<   作成日時 : 2008/06/08 18:09   >>

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雨が上がった 天王寺公園内を市美術館から すぐ隣りの茶臼山まで歩きます 

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                              茶臼山と河底池

四天王寺縁起にある 荒陵を壊して四天王寺を建てたという荒陵は茶臼山のことだといわれてきた 現に四天王寺境内庭園の石橋は古墳の石棺の一部といわれて 茶臼山古墳のものではないかとされてきた 
しかし 茶臼山の発掘調査では 古墳としての出土品がなにもなく 私も茶臼山を何回か歩いてみて これは古墳ではないと思います  四天王寺の境内には別の古墳があったのだと思いますが・・・



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            茶臼山へ向かう  河底池に架かる橋をわたると茶臼山へ行ける



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                山内は 稜線に沿って歩道があります


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                           頂上付近




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                 ぐるりと一周してくると 反対側にある広場


茶臼山は 谷町台地上の丘で 大坂冬の陣(1614年)で関東方(幕府)の家康が陣を置いた 本陣は将軍秀忠の岡山(勝山古墳)  家康はこの茶臼山の頂上に 陣屋を建て実質的に戦を指揮したという ここからだと 四天王寺の甍越しに大坂方の真田幸村(信繁 )の固める 真田丸の六文銭が見えていた?かな 
関東方も家康を含め 最初は真田 昌幸の「こ倅」と幸村のことをなめていた いざ 戦が始まると 大坂方の挑発に乗ってしまった関東方は 真田丸付近の戦闘で打ち負かされてしまい 業を煮やした家康は退却を命じた
その後も 大坂方の攻撃と守りはゆるがず 家康は秀忠の考えとは別に 講和を決めてしまう


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         天王寺公園茶臼山北側の出口にある観音寺参拝道への道標



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観音寺と一心寺の間の道を 夕陽丘方面に上がっていくと 安居神社(天満宮)があります


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           天暁院とビルに挟まれて安居社の境内につづく参道が


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西向きの参道(安居社の境内から下を見る)ですが かなり 高い丘(夕陽丘)の上に安居社があるのがわかります 谷町台地の西の端ですが古代では ここから先は海でした 海に沈む夕陽が見えたので夕陽丘と呼ばれるようになったのでしょう



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安居神社  創建時期は よくわかりません 祭神は少彦名神 菅原道真です



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                    境内にある「真田幸村戦死の碑」


1615年5月 冬の陣から半年 夏の陣がはじまります 幸村(信繁)は 外濠を埋められ 真田丸も壊されて裸同然になった大坂城での籠城戦の不利を考え 関東方(幕府)が到着する前に 秀頼に大坂城を出て 伏見城へ移り 洛中より全軍に号令をかけることを進言するが 大野治長らに反対される その後 大坂方は城を出て戦うことになるが 秀頼は最後まで出馬しなかった 
幸村は 茶臼山に布陣するが この時の姿が 講談や映画でお馴染みの 緋縅の鎧に 鹿の角の前立に白熊付きの冑をつけ 六連銭の家紋を打った金覆輪の鞍を置き 紅の厚総をかけた河原毛の馬にまたがる堂々たる大将ぶりであったという  そして 最後の決戦の5月7日 大坂城天王寺口で 毛利勝永隊と赤構えの真田隊による 家康 秀忠本陣への総攻撃がおこなわれた 作戦も何もない ただ死に物狂いの突撃に 一時 本陣は総崩れになり 家康も退却したという(三河物語)  しかし 多勢に無勢 幸村一行は「これまで」と 茶臼山へ引き返すが 満身創痍で疲れ果てて 安居神社の近くの畑の畦(一説では神社の石段)で 動けなくなっているところを越前松平家の鉄砲頭西尾仁左衛門久作に首をとられたという(細川家記)

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      真田信繁 (?〜1615) 本名は左衛門佐(諱は信繁)幸村という呼び名は後世なってから


さて 幸村の首実験は 翌8日朝に 茶臼山に移動した家康の本陣で行われた 西尾仁左衛門久作はそこで家康に 手柄を誇張して報告したために 家康から本当に幸村の首かどうか疑われている(武徳編年集成) その他の資料でも 家康は幸村の首が本物かどうか確かめようとしたことがかかれているが はっきりとしていない 

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                      花筵記  内閣文庫

しかしながら  花筵記という資料には 家康は 左衛門佐の首に対して敬意を表して語りかけていることが書かれているので その首を幸村の首と思っていたのか?    

そんなこんなで やはり 明智光秀の首と同じで真相はわからずじまい 真田幸村が秀頼とともに島津に落ち延びたというような伝説が語られることになりました


              づづく   四天王寺界隈へ

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コメント(2件)

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上野の大江戸帝国博物館の「国宝 薬師寺展」に、行って来ましたよ。 すごい人込みだった。 そちらの、浪速官立美術館の方は、ゆっくりと鑑賞されたみたいでよかったですね。 機会があれば、河内三太子を回って見たいのですが・・・ ところで、聖徳太子は本当にいたのですか?
大神太郎
2008/06/10 19:26
薬師寺の薬師三尊像は素晴らしかったでしょう 白鳳時代の傑作だと思います 薬師如来の台座もよく見ましたか?

聖徳太子の存在については 昨今色々と説が出ています
今の段階では 聖徳太子という固有名詞を持つ人物がいたかどうかはわかりません  いたということを前提に研究すればいたし いないということを前提に研究するといないと結論してしまうでしょうね
新しい 一級資料でも発見されなければ なかなか決着つかないでしょう
なぎさの民俗学者
2008/06/11 09:15

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