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zoom RSS 東近江 道草歩き その3 特別史跡 安土城跡 後編

<<   作成日時 : 2008/07/21 14:12   >>

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東近江の道草歩き 特別史跡 安土城跡の後編です さて いよいよ 安土城の中心部に入る 黒金門跡です


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                       黒金門跡

黒金門は 百々橋口道 七曲口道から安土城の中心部である本丸 二の丸 三の丸へ西側から入る所で 門からすぐに石段を直角に2回曲がって城内へ入れる「外枡形虎口」の構造となっています この枡形虎口を抜けると 二の丸の石垣を利用した方形の空間があり この空間は「内枡形虎口」となっており 「外枡形虎口」との二重構造でより防御力を高めています
こうした虎口形状をもつ城は戦国期を通じてでは武田氏や北条氏 織田氏などの城でしか確認されていません 古代から 石積を得意とした 穴太衆の仕事でしょうか


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                   黒金門をすぎて 二の丸へ続く石段


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                    二の丸の手前にある 謎の仏足石
言い伝えによると信長の足形ということですが どうですかね  築城に際して 近隣のめぼしい石材を片っ端から運んできたために 城内には?というような石材が残っています この仏足石も どこかの寺院から持ってきたもののさすがに石垣に使うにはためらわれて 庭石としてここに放置されたのか・・? 想像をかきたてますね


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                    安土城 二の丸跡(推定)

なぜ 安土城二の丸跡に信長廟があるのだろうか・・・?
二の丸は信長が 日常に政務や生活を送っていた場所とされています 二の丸跡には信長廟があり 秀吉が1584年2月 信長の四男秀勝を担ぎ出して 大徳寺で信長の一周忌の大法要を行い その後 信長の太刀、烏帽子 垂直などをここに埋めて廟所を建立したものです 詳しいことは発掘調査されていませんのでわかりませんが 信長廟を建てた 翌年に安土城は廃城になっており このあたりに 秀吉の思惑がありそうですが・・・
                               「本能寺の変 焼け瓦見つかる 」 参照


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                           二の丸から本丸へ

「天主・本丸がある主郭は城の中心部であり 主郭外周をめぐる道からは数多くの門や武者隠しなどが発見され 綿密に計画された高い防御性がうかがえます 主郭部北虎口付近やそれに隣接する伝台所郭からは複数の建物礎石が発見されましたが それらは共通した計画線上に据えられており 互いに独立した建物ではなく 虎口から伝台所郭全体を覆うような一連の大規模な建物であった可能性があることが分かりました この他 二ノ丸東溜まりでは建物の礎石上に焼け残った柱の部材や建ったまま焼け残った壁が発見され、炎上の様子を生々しく伝えるとともに 城内の建物についての貴重な情報を提供しています また炎上の跡が発見されたのはこの主郭部の中だけです」             
                                             滋賀県安土城郭調査研究所


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                           本丸跡(推定)

本丸跡での1999年の発掘調査で 礎石を全て調べた結果 その規模 配置から 後に秀吉が内裏に建てた清涼殿と同じ規模のものであることがわかりました そのことから 信長が朝廷との関係を深めるために天皇を安土城に行幸させようとして 清涼殿に類似した建物を本丸に建てていたのではと推測されましたがどうでしょう
もし 実際に 信長の意図どうりに天皇が安土城に行幸したとしたら 信長は名実ともに「天皇までも傘下にした天下人」と認められましょう それは 太政大臣 関白 将軍といった官位に基づく世俗的な「天下人」ではなく ゆくゆくは 天皇から禅譲を引き出し 海外を見据えて国際的に通用する「軍事力を持ったローマ法王」のような存在になろうとした「信長の野望?」の手始めだったのではないでしょうか・・・・あくまでも私の勝手な推測ですが・・


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                       本丸から天守跡へ

さて たわごとはこれくらいにして 天守跡へ向かいましょう


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                   曲がりくねった 石段を登ります 


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                     天守の外郭の石垣へ到達


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                         安土城  天守跡

いうまでなく 礎石と回りの一部の石垣のみしか残っていません

1576年 信長に城普請を命じられた 総普請奉行の丹羽五郎左衛門長秀は「天下普請」と称して東海・北陸・近畿の信長配下の武将や京都や奈良 堺の名工を総動員して築城にあたります 
 
安土城を設計したのは室町幕府の御大工を勤めた 尾張熱田神宮の宮大工岡部又右衛門父子
石垣などの石工頭は 古代から古墳造りを担ってきたという戸波駿河と近江穴太衆
天守やその他の御殿の襖絵などを描いたのは 天下の狩野派総帥の狩野永徳・光信父子
黄金を使った金工には後藤平四郎と鉢阿弥一門
畳刺は伊阿弥新四郎など
当時の超一流の職工や芸術家たちが普請奉行木村次郎左衛門のもとに集められ 3年の歳月をかけて1579年に完成しました
安土城は五層七重の天守閣といわれていますが はっきりとはわかりません

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                    「安土城」部分 屏風絵風板壁画 安土町城郭資料館蔵



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天守跡から 琵琶湖方面を望む 今は 埋め立てられて琵琶湖が見えないですが 当時は すぐ下が琵琶湖でした 
安土城はその後 1582年 本能寺で信長が討たれると まもなく(山崎の戦いの後か) 天守閣と本丸が焼失したとされています そこのところの経緯は詳しくはわかりません そして1585年 羽柴秀次の八幡城築城のために廃城


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      安土城天守跡で いたるところに残っている 天守閣の瓦片 どのあたりの瓦だったのだろう・・・




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                        夏草や兵どもが夢の跡      天守石垣


                                      つづく  旧ハ見寺跡へ 番外編

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