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zoom RSS 63年目の終戦の日 9月2日

<<   作成日時 : 2008/09/02 01:42   >>

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今年も63年目の終戦(敗戦)の日をむかえました 当時 20歳だった方も80歳を越えるご高齢(といっては大変失礼で ご近所には元帝国海軍の82歳になられる大変元気な方がおられます 会うといつも わしもあと3年若かったら あんたを穂高から槍(槍ヶ岳)に連れて行ってやるんだが・・・といっています 私は自力で行きまよ・・)です  そこで思い出すのが 子供の頃今は亡き祖父が「もう少ししたら 江戸時代に生まれた人がいなくなるな」というようなことを言っていたことです 祖父が子供の頃は 本物の武士だった人や 西郷隆盛に会った人とかが身近にいたようです  63年の月日を思い 私も祖父のように「もう少ししたら 戦争(大東亜戦争 注)を知っている人がいなくなるな」と・・・・

注 大東亜戦争の呼び名について 当時(1941〜1945)は 日本国内で対中国戦 対連合国戦を「大東亜戦争」と呼んでおり 国民に浸透した一般的な呼び方でした 今の学校ではなぜ当時の日本がそう呼んだのか「大東亜」の意味をしっかりと教えないといけませんね

  

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                         昭和天皇 裕仁 (1901〜1989)
昭和20年8月14日 陸軍のクーデターを心配した鈴木貫太郎首相の提案で天皇の御召という最後の御前会議(閣議と最高戦争指導会議の連合会議)を開き 天皇の意向(聖断・・・自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ・・・・ )というかたちでポツダム宣言受諾を決める


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翌15日正午 「大東亜戦争終結ノ詔書」 の天皇自らの肉声の放送(実際にはレコード録音盤の放送で 録音は14日の深夜から15日にかけて行われた)ポツダム宣言受諾(無条件降伏)の詔書を全国民に向けて朗読放送した
これを受けて東郷茂徳外務大臣は外務省に行き スイス経由でアメリカ政府宛にポツダム宣言受諾の電報を打ちました スイス臨時代理公使グラスリは日本からの正式な受諾公電をワシントンに送ります ワシントン時間の14日午後7時過ぎ トルーマン大統領はホワイトハウスで記者会見し 日本の無条件降伏を発表しました



 
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8月30日 厚木海軍飛行場に降り立つダグラス・マッカーサー(1880〜1964)連合国最高司令官 マッカーサー来日に先立つ28日に米軍の先遣隊が厚木に到着していた この時から GHQによる戦時下相当の日本占領政策がおこなわれる


当初は別の艦船で行われるはずでしたが ミズーリ州出身のトルーマン大統領の要望で戦艦ミズーリに決定
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        9月2日 降伏調印式 東京湾上の米戦艦ミズーリに到着した日本全権代表
重光葵外務大臣 梅津美治郎陸軍大将・参謀総長  永井八津次陸軍少将・大本営陸軍参謀 岡崎勝男終戦連絡中央事務局長官 富岡定俊海軍少将・大本営海軍部第一部長 加瀬俊一内閣情報部第三部長 宮崎周一陸軍中将 大本営陸軍部第一部長  横山一郎海軍少将 太田三郎終戦連絡中央事務局第三部長 柴勝男海軍大佐・大本営海軍参謀 杉田一次陸軍大佐・大本営陸軍参謀 東久邇宮総理大臣秘書官 


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降伏文書に署名する 重光葵外務大臣 この後つづいて梅津美治郎陸軍大将が署名
文書が返されてマッカーサー元帥が署名 後は アメリカ 中国 イギリス ソビエト オーストラリア カナダ フランス オランダ ニュージーランドの順番で戦勝国代表が次々に署名した 署名用のテーブルはミズーリの食堂のテーブルを使った


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異例の演説(自由と寛容と正義)をした後 降伏文書に署名するマッカーサー司令官  マッカーサーの後ろには 1942年にコレヒドールで日本軍に降伏した米ウェンライト陸軍中将と 同じくシンガポールで日本軍に降伏した英 パーシバル陸軍中将 2人には署名に使用したペン(5本使用されたうちの2本)がプレゼントされた 調印式は約20分ほどで終了した

このポツダム宣言受諾の降伏文書調印により 日本の降伏(事実上の敗戦)が決まった そしてソ連を除く連合国の日本に対する戦時下相当の占領国扱いは1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効まで続く

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