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zoom RSS 初代伏見城(指月城)の遺構発見 桃陵遺跡

<<   作成日時 : 2008/10/28 23:49   >>

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羽柴秀吉が建てた初代伏見城(指月城)の屋敷跡(富田信高?〜1633)から 城の堀跡や金箔で覆われたキセルの一部が出土した  (27日付)


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                       初代伏見城の堀跡?  西近畿文化財調査研究所    
           
近畿財務局の公務員宿舎の整備に伴う 伏見城跡・桃陵遺跡の発掘調査で 今年5月から約3000uを調査 堀は東西の幅16m 南北の長さが11m 深さ2.2mだった 西側の護岸には石垣が確認されている


また 堀からは金箔のキセルの一部や高麗青磁の破片も出土している


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                 金箔を張ったきせるの煙出(左)と吸口  西近畿文化財調査研究所 



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                   高麗青磁の茶托(ちゃたく)   西近畿文化財調査研究所 


初代伏見城(「指月城)は秀吉が隠居のために 1592年に指月山に建てたが 4年後の慶長大地震で倒壊しており その後 本丸は場所を変えて(木幡山 現桃山御陵)再建されている 改築が繰り返された伏見城は当初の姿を伝える遺構がこれまで見つかっていませんでした  西近畿文化財調査研究所は 見つかった堀が慶長以降の伏見の城下町絵図などに記されていないことから 「堀の規模から富田信高の屋敷の堀ではなく 慶長以前に建てられた指月城の堀と考えるのが妥当」としている


富田信高が出てきましたね 富田信高というとあの有名な関ヶ原の前哨戦での安濃津城攻防戦  東軍についた安濃津城城主信高は 1600年8月24日(関ヶ原の戦は9月15日)安濃津城で籠城戦に挑みますが 味方は2千人足らず 対する西軍(毛利秀元、吉川広家 安国寺恵瓊 竜造寺高房 鍋島勝茂 長宗我部盛親 長束正家などなど しかも伊勢湾は九鬼嘉隆が封鎖)総勢3万強 それほど大きくはない安濃津城は西軍の猛攻によってあっという間に三の丸 二の丸が落ちてしまったために 城主自ら大手門まで出て戦いますが 多勢に無勢 敵に囲まれ「もはやこれまで」と切腹を覚悟したが本丸にも帰れない その時 1人の鎧兜の美顔の若武者が現れ(又は数人の甲冑武者を引き連れてとも) 槍でもって瞬く間に敵を五 六人倒したのである 

この若武者の働きで信高は無事に本丸まで戻ることが出来たのですが 敵を防ぎながら戻る間に まわりにいる者に若武者が何者か聞くが誰も知らない そのうち 若武者が女であると報告が入るので 信高は若武者の方へ近づく 若武者も敵を防ぎながら信高へ近づく 若武者の顔を見た信高は驚きます なんと自分の妻だったのです
「討死されたと聞き 私も一緒に死のうと思いここまで来たのですが 生きてお目にかかれるとは・・・ もう何もいうことはありません」・・・ 「武功雑記」に載っている話ですが どこまでが本当かわかりませんが 信高の妻も槍を引っさげて戦うような総力戦だったことは間違いないようです 

その後も よく耐えて とうとう木食上人の仲介で西軍と和議を結び 信高は城を明け渡して 高野山で出家します
戦後 その戦ぶりが家康から認められ 安濃津城に復帰 旧領安堵でさらに2万石の加増 しかも 1608年には伊予宇和島に12万石に加増移封されての まさに 奥様には頭も上がらない?大出世ですね

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