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zoom RSS 西国街道をゆく その2 大山崎離宮八幡宮

<<   作成日時 : 2009/09/29 09:47   >>

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さて 西国街道のつづきです この西国街道(山崎道)は大阪府下の数ある街道のなかでも 比較的旧道の面影を残していたのですが ここ数年は 沿道の旧家の建替 道の拡張 道標の撤去または移動 余計な道標の施設などがおこなわれています


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                       江戸時代の道標と無粋な案内標識





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               山崎の戦いで秀吉軍が通った 山崎へと続く 街道

1582年 備中高松城で毛利と陣を構えていた秀吉は 毛利輝元という人物を「天下を獲る野心なし」と見切っており すでに対毛利戦の勝敗は決していた あとは 信長の仕置きを待つのみである それだけに信長本隊(光秀隊?)が 到着するまでに 講和を結ぶ利を 毛利側も十分承知していたので 本能寺の変の一報が秀吉に届いたときには 講和の準備は大方出来上がっていた そこで急ぎ講和を結ばせると 秀吉は 先鋒を姫路城に走らせ 石田三成などに西国路の各宿場に 兵糧の準備をさせ 姫路城には軍資金を集めさせた そして秀吉は 約3万の兵を分散させると 随時 引き返らせた 秀吉自身は余裕で6日後には尼崎へ到着 そこで摂津衆を味方につけると 富田で軍議を開き 光秀掃討の兵をまとめる そして織田信孝を総大将にして 西国街道の山崎へと殺到した





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                         サントリー山崎蒸溜所

街道脇 JRの線路を挟んで 有名なサントリー山崎蒸溜所が見えます 「日本のウィスキー発祥の地」だそうです   ここでは事前に電話で申し込めば 誰でも工場見学させてもらえます しかも あの高級ウィスキー「山崎」を試飲させてくれます 私はビール党なので 長岡京市にあるサントリーのビール工場見学のほうがいいです ちなみにアサヒビール工場は吹田市にあり 見学できます キリンビアパークは神戸六甲にあり見学できます もちろん 車で行くとビールは飲めません




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摂津国(大阪)と山城国(京都)の国境にある関大明神社の脇に建っている「従是東山城国」の道標  いつごろ建てられたのか判然としませんが 古くは山城は山背(山代)と書きました ここには古代山陽道の関所(山崎の関)があったとされており 平安時代に関所が廃止された後 官人の宿「関戸院」が作られ 藤原道長などが立ち寄りました その後 関大明神社となり 現在の建物は室町時代のものだそうです





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大山崎離宮八幡宮 創建は859年とされていますが 詳しいことはわかりません 対岸にある石清水八幡宮の元社として 宇佐八幡宮から勧進 もともと 同時期 この付近には嵯峨天皇の離宮「河陽離宮」があったので 離宮八幡宮と呼ばれています 861年からは山城国府が置かれ 離宮前の直進道の先には山崎大橋が架かっていました





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離宮八幡には かつて相應寺という寺もありその敷地はかなり広かった 今はこじんまりとしていますが・・・ 八幡宮は室町時代 幕府より 油の専売権を与えられ この八幡宮の許しがなければ油を売る事も 原料の荏胡麻を産地から運んでくる事も出来なくなり 全国の油屋は金銀を八幡宮に収めないと製造販売の権利(一年限り)を得ることが出来ませんでした そんなこんなで 油座の商人たちによる自治都市として八幡宮一帯はたいそう栄えました 斉藤道三が若い頃 ここで 油売りの商人をしていたというのは有名な話ですが 最近の研究では 油売りをしていたのは道三の父親で 道三は油売りの経験がないのでは?といわれています このあたり もっと研究が進めば 後の光秀との関係から 光秀の出自 本能寺の変の本意などがわかるかもしれませんね





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境内に残る かしき石 相應寺にあった塔の心礎であるといわれています 舎利器を納める為の二重の穴が刻まれていたものを後に小鉢として利用するため 扇形に彫り広げられています ただし 舎利器を納めるための二重の穴を持つ礎石は 奈良時代以前の形式で相応寺創建の時代(平安時代中頃)とは合わないので古くから山崎にあった寺院(山崎院か?)の礎石が再利用されたかもしれません





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山崎通分間延絵図 (五街道分間延絵) 部分  これを見ると かしき石は 西国街道の脇に置いてありますね






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JR山崎駅 このあたりもかつては離宮八幡宮の境内でした 駅前はおしゃれなカフェレストランなどもあり 休日はサントリーの工場見学や天王山(山崎山)ハイキングで賑わいますが 普段は静かな駅前です






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JR山崎駅のすぐ脇にある妙喜庵 千宗易利休(1522〜1591)の現存する唯一の茶室 「待庵」 1586年?国宝 が残されています 簡単には拝観は出来ません 往復はがきで申し込んでください 





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                          「待庵」内部       妙喜禅庵 
利休は山崎の湧水を求めて 屋敷をこの地に構えたという  待庵は山崎の戦のおり 戦勝を祝して 茶会を催した秀吉が利休に作らせた茶室と伝えられていますが 山崎の利休屋敷にあった茶室を 弟子たちが利休自害後にいち早く移転させたのではないかとおもいます 「待庵」には 勝手(の間)とよばれる意味不明な小部屋があります 利休はそれまで茶室といえば4畳半だったのをさらに狭くして 「待庵」は2畳にしたので余った部屋でしょうか えっそんなの 利休の勝手だって・・・・今日はこれまで

   


                               つづく  その3へ

おまけ

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                       お吟さま  1978年 東宝
利休というと 志村喬がおもい浮かぶのですが この映画のせいかな・・・・・

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。
京への街道のシリーズ、面白いですね。私は楠木親子の「桜井の別れ」は奈良県の桜井市のことだと思っていました(恥)。ウチの父もそう思っていたフシあり。
備中高松城へは、秀吉軍は国道171号線が通っているあの道を使ったのだと、かた〜く信じていました(恥) 旧街道と171号線は並行して走っているのですか?
171号線で京都方面へは時折..名神が使えない折は。
2番目の写真のサントリーの醸造所は、電車の車窓から見えるものと同じですよね? 新幹線から必ず見えますが、山の中にたたずんでいる姿は、とても静かな雰囲気がありますね。今回、長岡京にはそれほど実体がなかったのだ、とわかりました。地名にもなっているので、どんな都だったんだろう、と不思議に思っていました。もうすぐ東寺へ到着ですね。 東寺の塔が見えてくると、いつも嬉しくなります。 続きを楽しみにしております。
☆サファイア
2009/10/07 20:41
「桜井の別れ」を奈良の桜井(市)と思っている人は結構いると思います  ただし 大和の桜井村だと当時の呼び方で言うなら「十市の別れ?」となったでしょうね 171号と旧街道は京から西宮までほぼ平行に走っています 写真のサントリーの醸造所は新幹線等の窓から見えるものと同じですよ・・probably・・  この「街道のシリーズ」(シリーズにしているつもりはないのですが・・もうシリーズでいいです) 無事に東寺に着くかどうか・・・わかりませんよ 予想外の展開があったりして・・perhaps・・  乞うご期待・・・して下さい
なぎさの民俗学者
2009/10/08 13:32

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