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zoom RSS 西国街道をゆくを変更して 大原野道をゆく その1 竹の径と桓武天皇陵の謎

<<   作成日時 : 2009/10/12 15:34   >>

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さて 寄り道はこれくらいにして 西国街道上洛の続きです


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西国街道 西向日町付近  旧道は石畳にされ 長屋門の旧家などが残っており 街道筋の雰囲気を出そうとしていますが 「過ぎたるは及ばざるがごとし」で 整備するのもほどほどに





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寺戸町梅ノ木にある道標   ここから 西国街道はJR向日町駅に突きあたり 西に急カーブでJRのガードをくぐると 再び 北に向かってカーブして 久世橋で桂川を渡りしばらく行くと 九条通り(国道171号)に合流してそのまま東寺門前につきますが このまま東寺口までいってももう何もないし 以前 羅城門跡まで行った時に車の多い久世橋を渡るのが苦痛だったので いきなり 予定を変更します この梅ノ木の辻で西国街道から別れて 大原野道に入ります





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4本の道標 右端の「官幣中社大原野神社」は大正時代のもの 梅ノ木の地名は 街道筋に梅林があったということから





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大原野神社へつづく大原野道  近世は都から大原野神社へ行くルートは 西国街道から別れたこの道を行くか 京丹波口から山陰街道〜丹波街道〜大原野道というルートがありますが 紫式部が訪れていた平安時代はどのようなルートだったのでしょうか(考察として 羅城門〜鳥羽造り道〜大縄手(山陰道)〜大原野道)





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大原野道を進みます  新上里橋で小畑川を渡ります 近年 小畑川のすぐ上流に洛西ニュータウンが出来 古墳や遺跡 古道などが破壊されています  素晴らしい里山の風景が残っていたのですが・・・・







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新上里橋渡る手前に 以前は竹薮だったところが 造成されて宅地になってしまっていますが 「竹の径」なる標識を見つけました 





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気になったので ちょっと行ってみます 途中 桓武天皇の皇后の高畠陵があります 皇后というと早良親王の怨念で死んだ?藤原乙牟漏(760〜790)です  藤原氏の氏神社がある 大原野神社に行く途中に葬られていますね 以前は竹薮の中の道を登ったのですが 今は住宅地の私道を登ります  それで 夫である桓武天皇の陵墓はどこ?・・・




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「竹の径」は大原野道と洛西ニュータウンに挟まれて わずかに残っている竹薮の中の道でした





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「竹の径」2  嵯峨野の竹薮にはかないませんが 部分的にそれなりの雰囲気はあります 






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洛西ニュータウンの西側 物集女町のほうにはまだ 竹薮がかなり残っていますが やがてそこも開発されるのでしょうか 出来れば残してほしいですね そうしなければ京洛周辺の里山がなくなります 



で・・桓武天皇の陵墓ですが この大原野にはありません 皇后と仲良くという訳じゃなかったんですね 

桓武天皇は 自分が死んだら 平安京が望める山城国葛野郡宇多野に葬るようにと遺言していたらしいのですが なぜか ここに葬られることなく なんと 山城国紀伊郡柏原に葬られています 宇多野とはどのあたりかというと 御室の仁和寺があるあたりです 現村上天皇陵になっているあたりではないかと思います 桓武天皇が亡くなり宇多野に山陵がすぐに決まったので 生前からこの地を希望していたのでしょう しかし 工事直前になって 山火事が起こるは 月食は起こるは 宮内の武器庫で不気味な夜鳴きがあるわで 平城天皇は ト占によって桓武天皇の山陵地が問題ありと得て 柏原の地に変えてしまったんですね(日本後紀) 

柏原とは どのあたりかというと 伏見や深草のあたりですが 「中右記」(平安京を知るのに大変勉強になる基礎資料です)によると 平安時代の終わり頃には桓武陵は 一体どこにあるのかわからないほどに荒れていました それでも 鎌倉時代までは何とか荷前の儀式が行われていたようですが その後応仁の乱から戦国 江戸時代にかけてその他の陵墓も荒果て 肝心の山陵の所伝もどこかに・・・  現在の桓武陵は 幕末に谷森善臣(1817〜1911)が紀伊郡堀内村字三人屋敷(現・伏見区桃山町永井久太郎)の地にあったわずかな塚を指定しましたが ここに桓武陵があった可能性はすくないです


桓武天皇陵はどこに?
幕末から現代まで 伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半) 伏見区深草鞍ヶ谷町山伏塚古墳(6世紀後半) 伏見区桃山町遠山黄金塚2号墳(5世紀) 伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮社(現・大亀谷陵墓参考地)などの古墳だとする説 さらに伏見城の建設で破壊されたとする説 「延喜式」に記された桓武天皇陵の兆域から推測して 現在の明治天皇陵の西北 伏見城二ノ丸跡にあたる丘陵の頂部(標高100m)とする説 風水と残された資料からの推察で 現 立命館中・高の裏手 伏見区深草坊山町の尾根とする説などまだまだいっぱいありますが 決め手にはなっていません
 

中国の皇帝のような 帝王になろうと理想を求めていた桓武天皇だが その平安王朝の初代帝王の陵墓がわからないというのも早良親王を冤罪(というよりも確信的犯罪の被害者)で 死に至らしめたことの祟りなのだろうか だが早良親王が日本史上初の人間の怨霊となったことで その後 陰陽師や雑密(密教)の輩の活躍する場がふえるのだが・・・


                                      つづく 大原野道をゆく その2へ

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コメント(2件)

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本当は、桓武天皇陵の在りかを知ってるんでしょ? 教えて下さい。
大神太郎
2009/10/15 12:19
知りませんよ 知っていたら密かに発掘に行きます ほぼ 確かな史料をあげて置きますから みなさんで勝手に推測して下さい
●桓武天皇陵は 宇多野から山城国紀伊郡柏原山陵(伏見山伏山)へと変更されましたが その後 間もなく 大水による被害を受けたために 半年後に山城国紀伊郡柏原陵(伏見山松原)に改葬された 「日本紀略」
●伴善男が創建した報恩寺(5年で廃寺 おうせんどう廃寺跡?)が柏原山陵の兆域内にあった 「三代実録」
●柏原陵の兆域は 東八町 西三町 南五町 北六町 北東に2つの尾根と谷がある(一町は約118m) 「延喜式」
●柏原陵は 稲荷山の南側の裾野にある 「江家次第」
●荷前の儀式に来た荷前使のルートは 深草村の南から東へ行き松原に出たが柏原陵は見つからず 次に喜祥寺へ行き南大門から 深草陵(仁明天皇陵 善福寺のあたりにあったのではないかとされている 現在の深草陵は幕末に比定)の鳥居まで行った その間の距離は(松原付近から深草陵まで)五〜六町である 「中右記」
尚 柏原陵が記載されている「光厳院古図」伏見山古図)1445年?は あまり信用出来ない すでに その頃は真の柏原陵がどこかわからなくなっていたと思われます
なぎさの民俗学者
2009/10/16 17:22

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