なぎさ

アクセスカウンタ

zoom RSS 難波京の条坊を確認?とか 正倉院展とか 

<<   作成日時 : 2010/10/26 11:47   >>

トラックバック 0 / コメント 2

今年の9月の初めに 大阪市天王寺区の上本町遺跡で 谷にかかる橋跡が発見された 橋脚を固定する盛り土から8世紀前半の土器と思われるものが出土して 飛鳥時代の前期難波京の条坊(碁盤状の区画道路)が 初めて確認されたという  橋は谷を渡る最短距離ではなく 不自然に斜めに架かる形だったため 難波京の条坊制の想定復元図と照合すると 南北方向の条坊道路と一致 条坊道路の一部と判断したという


画像

              発見された橋脚遺構  上本町遺跡  大阪文化財研究所

 
橋は架け替えられており 古い橋は約幅2.4m 新しい橋は約幅3m 橋につながる道路の跡は見つからなかった 橋は京の中心部を南北に走る朱雀大路の1筋西側にあたり 難波宮から約2k南の地点だった 


このニュースが流れたときは とうとう難波京の条坊が見つかったかと 驚きました 現在の難波宮跡には 前期(飛鳥時代)と後期(奈良時代)と2つの時期に造営された遺構がありますが 京域を示す条坊の明確な遺構は発見されていませんでした これまで 続日本紀の役人に区画した邸宅を支給したという記述や 明治21年の内務省大阪実測図に四天王寺の東側に条坊区画の痕跡らしきものが載っていることから 条坊が存在していたのではないかといわれて いくつかの復元図案がされています 

しかし まだまだ 難波京の条坊には問題がありますので この発見だけでは確かに存在したとはいいかねます 
前期と後期の条坊は同じなのか 京域全体に条坊が整備されていたのか 四天王寺の中軸線と難波宮の中軸線のズレ  橋脚遺構のすぐ近くで 後に同じ飛鳥時代の井戸が見つかったが 想定復元図によると 道路の真ん中に井戸があることになるという  前期には条坊がほとんど整備されておらず 後期になって整備された?  そもそも 復元図そのものが 不完全などなど これからの研究に期待したいですね 



さて 難波宮(難波京かどうかまだ曖昧なので)というと 聖武天皇(701〜756)


画像



天皇在位中に なんと8回(続日本紀)も難波宮に行幸しています 


画像

                    後期難波宮復元CG  大阪文化財研究所
  

この聖武天皇の難波宮行幸は 歴代の天皇中ではもっとも多い 岡田精司「古代王権の祭祀と神話」によると 文武 元正 聖武の3天皇が大嘗祭の翌年に難波宮へ行幸しているという これは 生国魂神社の縁起にみられる 八十島祭の前身的な祭祀を執り行っていたのだという


八十島祭(やそしままつり)とは 天皇の即位礼の翌年に行なわれた皇位継承の儀式の一つで 平安時代から鎌倉中期まで行なわれた 難波津には 古代 大小多数の島々があり これらの島々を大八洲(おほやしま)に見立て 島々の霊を招き寄せて大八洲の主としての天皇の資格を祝福するもの

古来より 難波の地は 皇室とは深い関係あり 大阪市立大学名誉教授栄原永遠男によると 天皇が難波に行幸して行う行事は 天皇の生命力を 奮い起こすため〜難波は霊的な土地であり〜生きる力をもらうことのできる聖なる場所であった「難波行幸の意味 毎日新聞」 という   うむ〜そうで なければ150年もの間 存続しなかったんだろうね 

大仏を造っている平城京を捨て 難波宮に遷都を希望したという聖武天皇 それを阻止しょうとする藤原仲麻呂 しかし 難波宮にいた元正太上天皇が電撃的に難波へ遷都することを宣言する  聖武天皇が光明子や藤原氏に取り込まれてしまうことを危惧した元正太上天皇が 難波遷都(744年)によって 聖武天皇を光明子や藤原氏から切り離そうとしたのではないかともいわれている しかも遷都の詔は 聖武天皇自身が出したとも言われている
しかし どうであれ 聖武天皇は 「天皇の生命力を 奮い起こす」 この難波の地が好き?だったみたいですね

平城京では 大極殿などが復元されましたが・・・復元には慎重を期して取り組まなければいけませんが・・難波宮でも復元話が以前にはありました しかし 大阪は今は 財政難なので当分は無理でしょう




さて 聖武天皇というと


画像

                  第62回 正倉院展 
                              奈良国立博物館  平成22年10月23日(土)〜11月11日(木)



正倉院展が始まりました 今回の目玉は 19年ぶりの出品となる


画像

                          螺鈿紫檀五絃琵琶   北倉


インド起源となる有棹弦楽器  キジル石窟や敦煌石窟にも描かれた五絃琵琶だが 現存品はこれのみ 正倉院への最初の献納品目録である「国家珍宝帳」記載品

どんな風に弾いたのでしょうか のちの 琵琶法師のように 語りの効果音のように弾いたのですかね  当時のことだから 経典などの読経の効果音かもしれません  これを 観に行くだけでもいいとおもいますが 「会場では早朝から約1000人が行列を作り 開館が10分早められた」などのニュースを聞くと 行くのが嫌になる・・・・・ 




         琵琶演奏 「祇園精舎」


                                       ということで おわり

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは

正倉院展は遷都1300年なのであのきれいな「琵琶」が出品されるのですね!その琵琶の本物は見たことがありません。写真だけでも、実に美しいですね。レプリカを見たことがあります(笑)いいなぁ!本物をご覧になれる方々は!

難波宮について興味深く拝見しました。八十島ですかぁ・・言葉から当時の海と島々の風景が想像できそうですね。聖武天皇、おっしゃるように難波宮きっと好きだったんでしょうね。海の側の宮・・船が見えて・・・難波宮は今でいう何区にあったのですか? 聖武天皇は伊勢や恭仁京(離宮かな?)も好きだったらしいので、水辺が好きだったような感じがしますが・・橋下知事だし、難波宮の復元は困難なんでしょうね・・

娘文楽の記事、とても楽しかったです! 女子大生の皆さん、がんぱって再現してほしいですね!!  ありがとうございます。
☆サファイア
2010/10/26 23:18
☆サファイアさんこんにちは 私が想像するには 八十島というのは松島のような島ではなく 川の中州のようなものではないかと思います 引き潮の時には さらに中州が浮かび上がり まるで 国生みのように見えたのではないでしょうか しかし 幾多の宮城造りに木を伐採したので 難波津に流れる川の土砂が多くなり? しだいに中洲が埋まってしまった? 八十島の景観が失われるとともに 難波宮も終焉をむかえたのかも知れません
関西ローカルのニュースが江戸にも流れているかどうかわかりませんが 奈良は1300年祭(大極殿見物)やら興福寺の国宝館のリニューアルやらで 地味に萌えています(笑) 休日の正倉院展などは 芋の子洗うが如し?です 平日に行けたらいいのですがね〜
なぎさの民俗学者
2010/10/28 16:29

コメントする help

ニックネーム
本 文
難波京の条坊を確認?とか 正倉院展とか  なぎさ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる