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zoom RSS 天武・持統天皇陵 欽明天皇陵 そして 見瀬丸山古墳 明日香村散策その4

<<   作成日時 : 2010/11/16 17:29   >>

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高松塚の国宝壁画を見学ついでに 久ぶりの明日香の里を中尾山古墳 高松塚古墳 文武天皇陵とめぐりました

文武天皇陵から さらに奥へ 朝風峠の山道を歩き 稲淵の里へ さらに栢森へと歩きたかったのですが 生憎の天気で 今にも雨が降り出しそうなので これ以上深入りせずに 引き返して近鉄の駅の方へ


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                   稲淵の里から 朝風峠を眺める         明日香村
稲淵も栢森もすばらしい所なので またの機会に歩いてみたいと思います


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               文武天皇陵から 天武・持統天皇陵方面へ行く道


高松塚古墳の壁画が発見されるまでは 明日香村めぐりは 甘樫丘から始まって 天武・持統天皇陵周辺で終わるというのが一般的?でした 今では 色々な発見や話題が出てきて 見るところがいっぱいです


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                    天武・持統天皇陵  野口皇ノ墓(野口王墓)古墳


天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)はその名前が示すように 天武・持統天皇の合葬墓(持統天皇は火葬)です 現在の天武・持統天皇陵は高市郡明日香村野口に在り 墳丘は五段築成の八角墳で各段に石垣?のように石板状のものが巡っているのが部分的に外からも観察できる ここで この古墳の構造などを述べると大変な字数になるので この野口皇ノ墓が天武・持統天皇陵(「檜隈大内陵)に比定されるまでを 簡単に・・・

702年に持統天皇が崩御すると 先に埋葬されていた天武天皇と一緒に檜隈大内陵に合葬されました(続日本紀)
しばらくは 朝廷による奉告や祈請が行われていたようですが 次第に廃れて 鎌倉時代頃になると 盗賊らによって陵墓が荒されるということがたびたび起こります しかも 一般の見物人が 奈良や京から訪れて 石室内に入り天武天皇の遺骨を拝んだりしていました(帝王編年記) 
藤原定家の「名月記」には 天武・持統天皇の遺骨と遺灰が持ち出され 路頭に棄てられたということを伝聞したことが記されています 当局の取り締まりの目をかいくぐり再度 盗堀され 遺骨が持ち出されました(藤原実躬 「実躬卿記」1293年) 聖徳太子信仰の影響?か 高貴な人の遺物を有難がったかったのでしょうか?


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         檜隈大内陵  内陣 天武天皇の夾紆棺と持統天皇の銀の骨蔵器


やがて 他の天皇陵同様 陵墓の関する記録がなくなり 次に関心が集まるのは 400年後の国学が流行る江戸時代中頃から・・・それゃあ 陵墓の在り処など忘れられてしまいますよね
延宝7年(1679)の「和州旧跡幽考」や元禄9年(1696)の「前王廟陵記」などは 当時 飛鳥浄御原宮(清見原)が字上居に在ったとして その近くにある石舞台古墳を天武・持統天皇陵ではないかとしている  ところが 元禄11年の奈良奉行所の幕府への報告では 武烈天皇陵となっていた野口皇ノ墓古墳を天武・持統天皇陵に比定した・・・が 今度は横穴式石室に二つの石棺があるということで 見瀬丸山古墳が天武・持統天皇陵だという意見がでてきた「大和志」「山陵志」「打墨縄」「聖蹟図志」陵墓一隅妙」など・・・で 幕府は安政2年にその説にしたがって見瀬丸山古墳を天武・持統天皇陵に比定した それにともない 文武天皇陵を高松塚古墳から 野口皇ノ墓古墳へ変更した 明治4年には 正式に見瀬丸山古墳が檜隈大内陵として治定された・・・が 明治13年に 京都栂尾の高山寺で 高山寺文書の中に 鎌倉時代の盗堀の様子を詳しく記した実検録である「阿不幾乃山陵記」があることがわかり それをもとに 文武天皇陵であった野口皇ノ墓古墳を天武・持統天皇陵に 文武天皇陵を粟原塚穴に変更 見瀬丸山古墳の後円部を陵墓参考地として現在に至っている(見瀬丸山古墳は前方後円墳ではなく円墳とされていた) 


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天武・持統天皇陵の裏側  裏から 墳丘の様子がわかります 墳丘内にも入っていけますが 一応 立ち入り禁止になっていますので よい子は入らないように


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天武・持統天皇陵から 中尾山古墳 高松塚古墳方面を望む 明日香村は以前より 小ざっぱりした風景になっていますが 確実に開発の波が来ていますね


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                            里道の辻にある 地蔵


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                              鬼の雪隠

天武・持統天皇陵の裏から 里道を抜け 欽明天皇陵へ行く途中に「鬼の雪隠」があります これは里道をはさんですぐ丘の上にある「鬼の爼」と一対になった横穴式石槨で 上の石室が下の田圃に転げ落ちたもの(あるいは 高取城や郡山城などの石垣に転用しようと持ち運ぼうとした?)といわれています

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                        鬼の俎    鬼の俎・鬼の雪隠古墳


鬼の俎・鬼の雪隠古墳は欽明天皇陵の陪塚とされていますが 石槨が狭く 火葬墓の可能性があり 天武・持統天皇陵と同時代に造られているのではないか・・または 鬼の俎と並んで もうひとつ鬼の俎と同じような石板がかつてあり 鬼の雪隠はこちらの方と対になっていたともいわれている(鬼の俎・鬼の雪隠古墳双墓説 その石板の一部が橿原考古学博物館に野外展示されていますが 詳しくは不明)


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鬼の雪隠とその後方の天武・持統天皇陵  こうやって見るとかなり近いですね天武・持統天皇陵の兆域すれすれ?じゃないでしょうか   


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             欽明天皇陵へ続く道をぶらぶらと歩きます なんだか 懐かしい風景が・・・



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                       欽明天皇陵の周濠

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                        欽明天皇陵  平田梅山古墳

 
欽明天皇陵(檜隈坂合陵 檜隈大陵)は 高市郡明日香村大字下平田字ムメヤマに在り 日本書紀の「砂礫を以って檜隈陵の上に葺く」という記述や 今昔物語の「元(欽)明陵の鬼の石形」などの記述から 江戸時代から 一貫して平田梅山古墳が欽明天皇陵に比定されています(文久3年治定) 
しかし 文久の大改修の折に もともとなかった周濠を堀っており 江戸時代の絵図では 二つの双円墳で描かれている古墳を前方後円墳に造り替えているのではと言われています 宮内庁の測量図では 三段築成で前方部と後円部の高さが同じになっています  同志社の森先生は このことから現欽明天皇陵を蘇我蝦夷・入鹿親子の今木双墓と想定し 檜隈坂合陵を見瀬丸山古墳に比定した「古墳の発掘 1965」 日本書紀の記述を信じるならば檜隈坂合陵は 欽明天皇と蘇我堅塩媛 が合葬?されているはずなのですが 現欽明天皇陵は発掘調査出来ません・・・平成9年に行われた 陵墓内立ち入り調査で 「砂礫」 いわゆる葺石の状態もどうも他の古墳の葺石とは違い 貼石に近い状態であった しかも後円部に貼石の痕跡がほとんどない(宮内庁 平田梅山古墳の発掘調査) などから葺石は 幕末の改築のときのものではないかという疑問もある


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                        吉備姫王墓  平田金鳥塚古墳

欽明天皇陵に隣接して吉備姫王墓があります 柵の外からでも墳丘の様子がわかります ほとんど高まりがありません この古墳が吉備姫王(欽明天皇の孫)の桧隈墓かどうか 平田梅山古墳や鬼の俎・鬼の雪隠古墳などと関連して考えないといけません (堅塩媛は檜隈坂合陵に葬られる前に つまり改葬される前に 一時どこかに葬られていた(日本書紀)ので その墓という可能性もありますね)


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        有名な猿石?です  吉備姫王墓の正面 扉の左右に現在置かれています

猿石は 元禄15年(1702)に平田梅山古墳のすぐ南側の字池田の田圃から掘り出されました 字池田は回りの土地より低地になっており 平田梅山古墳の2重濠ではないかと 発掘調査されましたが 人工的な濠ではなかった(橿原考古学研究所調査報告) 平田梅山古墳と字池田の間に字ツクエという台形上の土地があり 掘り出された後はその上にこの猿石群が並べられていた が 幕末に平田金鳥塚古墳に移されたという 本来 全部で何体あったのかやなんの像なのかわかっていません  飛鳥には 様々な石造物がありますが これらは 当時の世界観というか宇宙観というか 人間の住むすぐ近くにあるいは 遠くに 自然の中にうごめく 何やらわからないものを古代の人は「かたち」に現したものなのかも知れません だから 酒船石も亀石も何なのか 初めから作った人でさえ説明がつかないのではないでしょうか  あえて 猿石について述べるのであれば 私の感じですが 以前 紹介した 北野天満宮の鬼神像のようなものではないでしょうか だから 猿石や鬼神ってなんだと言っても・・・説明がつかない 
 


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                   さて 欽明天皇陵への石段を降りると


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                   このあたりに部分的に残っている中街道の旧道です 



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               ここまで来たら あと 中街道を少し歩いて 見瀬丸山古墳へ



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          見えてきました 


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夏の間に伸び放題になった草?を刈ったのでしょうか 墳丘へ登る道が見えなくて 非常に登りづらい


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墳丘の段の跡がわずかに残っています 長い間 このあたりは畑になっていましたが 現在は 整備中で 自由に立ち入りが出来ます

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           後円部から前方部の方を 巨大な古墳の実感がわきます


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丘陵の上に築かれているので 回りが低く 墳丘がかなり高く感じられます  周濠の跡も部分的に残っています


見瀬丸山古墳の墳形は前方部中央が突き出した剣菱形前方後円墳です 全長318m 墳丘は4段築成?で前方部の上部は平坦になっており 後円部も4段築成されて さらにその上に直径55mのドーム状の墳丘がある 特殊な形をしています このドーム状墳丘内に横穴式石室がある  墳丘には 葺石も埴輪もありません 完成時は土を固めただけだった?



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            後円部のドーム状の墳丘部分のみ陵墓参考地になっています

江戸時代に描かれた絵図や明治時代のWilliam Gowlandによる調査などで 18mもある羨道 石室内に2つの石棺があることなどは知られていましたが 平成4年(1991)に子供が偶然に見つけた穴から中に入って撮影された石室内部の写真が公開されました この時は宮内庁も驚いたでしょうね 


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          見瀬丸山古墳 石室内  年代の異なる2つの石棺があった                


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               後円部の石室の入り口の方へ 行ってみましょう


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しっかりと埋め戻されていますね もう 穴が開くこともない?っていうか 穴が開いていても 中に入ってはいけないよ


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さてさて 見瀬丸山古墳に葬られている人物は一体誰なんでしょうね 欽明天皇か 宣化天皇か はたまた蘇我稲目か・・・・
これは 私のとんでもない推論ですが すでに いくつかの宮があり いろんな意味で中心地になっているような場所に 欽明天皇の時代といえ 巨大な古墳を造るのか・・・実は 古い時代に造りかけてほっておかれた前方後円墳を欽明天皇陵?として再利用したのではないだろうか(あるいは後円部のみ再利用) そうだとしたら 見瀬丸山古墳があるために 古代道下つ道(藤原京と同時期に造られたか? 見瀬丸山古墳があるために そこが終点とされている)がそこで途切れてしまったとは考えられない(下つ道の延長には 吉野や五条 紀ノ川など通じている)ことや さらに近世中街道が見瀬丸山古墳の周濠推定地をぶち貫いて通っている(この中街道がどこまで遡るかわからないが 下つ道の延長としてかなり古くから存在している可能性はあるし 周濠を迂回している道の痕跡?が見あたらない)ことの説明がつく つまり 早ければ 藤原京時代には見瀬丸山古墳の周濠推定地にはすで水がなかったか周濠そのものがなかった? しかも 周濠を破壊してまで道が通っているのは 古墳全体(前方後円墳として)を天皇陵?として認識していなかった(後円部だけを認識?) ・・・私の見瀬丸山古墳未完成後円墳部のみ再利用説ですが・・・あまり説得出来ないですね 

 注・・見瀬丸山古墳の後円部をめぐる周濠の痕跡は航空写真などでもわかりますが 現在 中街道の旧道が通っている 前方部の周濠推定地ではまだ 周濠の遺構がはっきりとわかっていません


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帰りは近鉄 岡寺駅から・・・お腹がすいたので何か食べようと思ったのですが 駅周辺には目ぼしい食堂がなかった・・・・・


                                                 おわり

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
飛鳥美人からの一連の記事、大変面白く読ませていただきました。 天武・持統天皇陵と高松塚とは、何やら聖なるラインの謎があるとか。 見瀬丸山古墳が未完成だったとはすごい説?ですね。
大神太郎
2010/11/23 14:17
聖なるラインというやつですね 偶然だと思うのですが 天武・持統天皇陵と鬼の俎・雪隠古墳 欽明天皇陵の双墳が東西の直線上に並びます さらに 東には鎌足の多武峰が・・・それと 南北は藤原京の中心線(朱雀大路)の先に中尾山古墳と高松塚古墳があります 鬼の俎・雪隠古墳あたりで 交差しているわけですが 偶然じゃない?・・
見瀬丸山古墳が未完成説は別にすごい説じゃないです 松原と羽曳野にまたがって河内大塚山古墳があるのですが これが 築造年代も大きさも形もほぼ見瀬丸山古墳と同じなんですね で 今年の2月に立ち入り調査があり 前方部の上部が平坦になっていて 葺石も埴輪もない これは未完成の古墳じゃないかといわれた(前方部のみ) 河内大塚山古墳が未完成なら よく似た状態の見瀬丸山古墳も・・・まあ 単純な推測です 但し 前方後円墳について古事記も日本書記も一切その逸話を記述していません 不思議ですね 継体天皇から天武天皇に至るまでに 再度 王朝の交代があったかもしれませんね 
なぎさの民俗学者
2010/11/23 17:45

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