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zoom RSS 特別展覧会「法然 生涯と美術」  京都国立博物館

<<   作成日時 : 2011/04/26 14:03   >>

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せっかく 法然展 親鸞展 しかも 神戸のギリシャ展のチケットまで貰ったのですが このところ 勤労が忙しく なかなか休みが取れなかったので・・・仕事中にというか 仕事をブッチして 京都まで特別展覧会「法然 生涯と美術」を 観にいきました  でへへへ・・・



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         法然上人800回忌 特別展覧会「法然 生涯と美術」   京都国立博物館 
                         平成23(2011)年3月26日(土)〜5月8日(日)



今回の展覧会は 今年で法然房源空(1133〜1212)の800回忌ということで これまでにない 法然そのものにスポット?を当てた展覧会ということだそうです

6世紀?ごろに日本に仏教が伝来?してから 仏教そのものが 一般民衆に広がったかというとそうでもないのですね 奈良時代は国家のための仏教 平安時代は貴族などの特権階級の仏教になっていました もちろん 民衆の中に自ら入っていく 仏者もいましたが それは 民衆を仏法により救済するというよりも 社会活動的な側面がありました  法然の時代 平安末期ころの仏教界は 南都六宗や 高野山 叡山などの官僚化した仏教が力を持っており 僧侶になるためには 試験に合格して 奈良や高野山や叡山で修行?しなければなりません  

法然も 13歳?で叡山に登り出家します 出来のいい人だったのですが いきなり浄土宗を考えだした訳ではなく 中国の浄土経の僧 善導(613〜681)の「観無量寿経疏」からのインスピレーションで「念仏」を得る  いわゆる「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで 老若男女 貴賎を問わず 今際の際に極楽浄土に往生出来るというものです これが 民衆に受け入れられていった訳です

平安末期から鎌倉時代にかけて 法然を初めとして 親鸞(浄土真宗) 栄西(臨済宗) 道元(曹洞宗) 日蓮(日蓮宗)などの新しい宗教が生まれますが 教科書的には これらは 南都六宗や高野山 叡山などの旧仏教と対立する関係で語られていますが 私が思うには 当時彼らには そういう意識はあまりなかったのではないのでしょうか 意識していたとしたら 彼らを支持した民衆(信者)たちであり 旧仏教の方でしょう  彼らの宗教は これまでの仏教からのさらなる発展と考えていたと思います



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                   法然上人絵伝巻37  鎌倉時代 国宝    知恩院蔵




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                   六道絵  閻魔王庁図  鎌倉時代 国宝 聖衆来迎寺蔵  京博寄託




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                     当麻曼荼羅縁起  鎌倉時代 国宝 光明寺蔵



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                  阿弥陀二十五菩薩来迎図 (早来迎) 鎌倉時代 国宝 知恩院蔵



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                  金銅蓮華文磬  平安時代  国宝  禅林寺蔵  東博寄託



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                  法然上人像  鎌倉時代 重文  知恩院蔵



伝えられる法然上人は 必要があれば 東大寺などの旧仏教の中にも入りこみ説教をする 上は天皇から 下は盗賊の輩まで 分け隔てなく教えを説いて歩いたという  
しかし 人気者になればなったで 法然の偽者まで現れ勝手な説法して法然の立場をややこしくする  普段から 法然の「念仏」をこころよく思わない叡山などは それを口実に弾圧を繰り返す 


建永(1207年)の法難・・・・やがて 旧仏教がすべて調子をあわせて「念仏」の敵に回る  しかも 運が悪いことに 法然の弟子の手引きで後鳥羽上皇の女官2人(松虫・鈴虫)が出家するというとんでもないことが起こってしまい 
それで 法然は還俗までさせられて 讃岐へ流罪になってしまう


さて  讃岐への船出の途中 難波神崎川の河口(尼崎)で 法然のうわさを聞きつけ小船を必死で漕いでくる遊女たちに 「汚れ多き女人であっても念仏を唱えれば 必ず往生できる」と説くと遊女達はその場で剃髪出家して念仏を唱えながら入水往生したという
 
そして もうひとつ 有名なのが 室津の友君伝説です  友君は木曾義仲の愛妾である山吹御前ではないかと言われていますが もとより 伝説ぽい世界ですから 何ともいえません もともと巴御前の陰に隠れて体の弱かった山吹御前は 義仲最期の後 どうなったかわかりません 各地に伝説が残っています 室津の伝説もそのひとつです 山吹御前はここへ流れ着いて 友君という遊女になったということです  


室津で讃岐への船出待ちをする法然のもとに 高僧のうわさを聞きつけたひとりの世をはかなう遊女がやはり小船を漕いでやって来ます  対面を果たした法然の前で舞をまい 教えを請います  法然は 還俗の身なれどとことわりながらも 遊女の儚い美しさに感じいりながら 念仏の功徳を教えます そして法然は 歌を書いて渡します


           仮そめの色のゆかりの恋にだにあふには身をも惜しみやはする  

  かりそめの恋心を求めるのに 我が身を惜しまない君じゃないか(ましてやそれが仏法を求めるならどうだろう)


感激した遊女の求めに応じて 法然は 水に姿を写して (時間がないので)自分の頭部だけの像を彫って渡しますそして 讃岐へと旅立ちました 出家した遊女は線香の灰を練って その像の胴体をつくりました その法然像は今も室津の浄運寺に残っています 
そうして 5年後に 許されて法然は京に戻れることになりました 再び 室津に着くと 法然はあの遊女の消息をたずねました 遊女は出家したあと 像を完成させると 念仏を唱える日々を過ごし すでに念仏往生していました
その 遊女が友君であったということだそうです

京博で有難い法然展を見せてもらい 不謹慎ではありますが 法然と友君との間に 何か淡い恋ごころがあったのではないか・・・ いやなかった・・と昔からいわれていますが  私は あったと思いますよ それは「念仏」を信じるもの同士の恋(極楽浄土)じゃなかったのではないでしょうか



                                                     おわり


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コメント(2件)

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友君ですか・・・・。法然という人はどういう人だったのでしょうか。 ありがたい展覧会は、こちらでも開催してくれないのですか。
大神太郎
2011/04/27 14:20
法然は 9歳の時に目の前で父親を闇討ちされ 死ぬ間際に仇打ちを戒められますそのことが 後の法然の思想形成に大きな影響を与えたとされますが 私はそうは思いません 当時は力ある者たちが親子が兄弟が親戚一族が敵味方に別れて 大義名分もなく 私利私欲で争っていた時代です ましてや 法然は軍人一家の出ですから そのようなことは想定内のこと それよりも そういった争乱に巻き込まれたり 疫病や貧困で死んでいく善男善女たちをいかに極楽浄土へ導くか・・・源平の戦が平安時代を通して蔓延していた無常観の頂点に・・・ これまでの仏教では 全ての人々を往生させるには限界があった そこで「念仏」が生まれたわけです これで 多少なりとも無常の壁に小さな穴があき 光が射したのですね 法然は諸行無常も仏の摂理なら 念仏往生も仏の摂理と説いた人です 親鸞はさらに一歩進めて 善男善女に限らず悪人さえも念仏往生出来ると説いた

法然上人八百回忌・親鸞聖人七百五十回忌 
 特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」
     東京国立博物館 平成館 2011年10月25日(火)〜12月4日(日)
                   法然と親鸞のニコイチの展覧会です
なぎさの民俗学者
2011/04/27 17:50

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