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zoom RSS 織田作之助と口縄坂  大阪散歩その2

<<   作成日時 : 2013/12/11 21:12   >>

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今年(2013年)は織田作之助生誕100年ということで こちら上方では色々と記念イベントなどが行われておりました  と・・いうことで 今年もあとわずか 来年になってしまうと白けてしまうので 私も今年中に便乗しておきます
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                       織田作之助(1913〜1947)

生誕100年ということは 今生きていれば100歳(当たり前ですね・・) しかし 織田作は私が生まれる前にすでに
故人になっていますし 私の歳もすでに織田作の享年をかなり越えております・・ 
今回の便乗散歩は 織田作の作品に出てくる有名?な口縄坂へと歩いてみようと思います




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天王寺公園から一心寺横を通り 天王寺七坂のひとつ逢坂(国道25号によって旧坂は消滅)を下り松屋町筋に入ると すぐに安居社(安井神社)の鳥居があり 奥に安居社への石段があります 




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さらに行くと 同じく天王寺七坂のひとつ 天神坂があります 先ほどの安居社(天満宮なので)へ続く坂なので天神坂です





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さらに行きます 天王寺七坂の愛染坂へ続く道 前方の石段は勝鬘院愛染堂へ 石段の右横を回ると愛染坂があります  口縄坂以外の天王寺七坂についてはまたの機会に詳しく紹介しましょう




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さてさて 口縄坂に着きました 私も久しぶりです かなりこのあたりの街の様子も変りました


 

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                        それでは 先へ進みましょうか




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途中に善龍寺 大阪大空襲で山門を残して全焼 もともと松屋町筋沿いにあったが1972年に再建 現在の場所に移動 海中出現地蔵尊が有名です つまり 夕陽丘を下り 松屋町筋あたりから西は 昔は海だった 

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                         夫婦善哉 他短編集
口縄坂のことが書かれているのは「木の都」という短編 小説というよりはエッセイに近いかな・・・  




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口繩とは大阪で蛇のことである。といへば、はや察せられるやうに、口繩坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といつてしまへば打ちこはしになるところを、くちなは坂とよんだところに情調もをかし味もうかがはれ、この名のゆゑに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだが、しかし年少の頃の私は口繩坂といふ名称のもつ趣きには注意が向かず、むしろその坂を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の想ひが傾いた。  「木の都」

口縄とは蛇のことですな この坂が 上から見下ろしたら蛇のように曲がりくねっているからとか・・・ほとんどまっすぐな坂なんですがね・・・




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                        大阪府立夕陽丘高等女学校跡碑
    いつのまにかこういうものが建っていますね 女学校は 現在の大阪府立夕陽丘高等学校の前身




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                            女学校跡
・・・・ただ口繩坂の中腹に夕陽丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やしてゐたのである。夕暮わけもなく坂の上に佇たたずんでゐた私の顔が、坂を上つて来る制服のひとをみて、夕陽を浴びたやうにぱつと赧あかくなつたことも、今はなつかしい想ひ出である。・・・・・かつて中学生の私はこの禁断の校門を一度だけくぐつたことがある。・・・・・私はちやうど籠球部へ籍を入れて四日目だつたが、指導選手のあとにのこのこ随ついて行つて、夕陽丘の校門をくぐつたのである。ところが指導を受ける生徒の中に偶然水原といふ、私は知つてゐるが向うは知らぬ美しい少女がゐたので、私はうろたへた。水原は指導選手と称する私が指導を受ける少女たちよりも下手な投球ぶりをするのを見て、何と思つたか、私は知らぬ。それきり私は籠球部をよし、再びその校門をくぐることもなかつた。そのことを想ひだしながら、私は坂を登つた。 「木の都」 

女学校がここにあったのは 1908〜1934年まで 私が夕陽丘といえば思い出すのが 夕陽丘図書館 高校生だった私も図書館を訪問した折 口縄坂を登りました





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坂を登りましょう 正面に天鷲寺の赤い伽藍が・・・・あれはいつ出来たのでしょうね・・・以前はなかった





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登りきる途中の横にある祠・・・何の祠かわかりません 左右の石柱には「楽天地北横」「八島洋食店」の字があります 楽天地といえば 「楽天地ビル」が梅田にありますが 関係ないでしょうね これは 戦前にあったミナミの千日前楽天地のことでしょうね その横にあった八島洋食店のこと?





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登ったところに珊瑚寺があります 豊臣家の重臣 桑山重晴(1524〜1606)が 秀吉の武運長久を願って建てたのが珊瑚寺のはじまりとのことです 重晴は朝鮮出兵の際に朝鮮より持ち帰った小児薬を「桑山丸子」の名で売り出したところ 評判がよく 後に近松門左衛門の「心中天網島」で 子供に「くわやま」を飲ませるように とあるように有名になり 「桑山丸子」は大正時代頃まで製造されていました





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                             上から坂を




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年の暮は何か人恋しくなる。ことしはもはや名曲堂の人たちに会へぬかと思ふと、急に顔を見せねば悪いやうな気がし、またなつかしくもなつたので、すこし風邪気だつたが、私は口繩坂を登つて行つた。・・・・・そして名曲堂の前まで来ると、表戸が閉つてゐて「時局に鑑かんがみ廃業仕候」と貼紙がある。・・・・錠が表から降りてゐる。どこかへ宿替へしたんですかと、驚いて隣の標札屋の老人にきくと、名古屋へ行つたといふ。・・・・・二十日ほど前に店を畳んで娘さんと一緒に発たつてしまつた、娘さんも会社をやめて新坊と一緒に働くらしい、なんといつても子や弟いふもんは可愛いもんやさかいなと、もう七十を越したかと思はれる標札屋の老人はぼそぼそと語つて、眼鏡を外し、眼やにを拭いた。私がもとこの町の少年であつたといふことには気づかぬらしく、私ももうそれには触れたくなかつた。 「木の都」



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                          織田作之助の文学碑

口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。  了 「木の都」    (昭和十九年三月)


矢野名曲堂は口縄坂を登った先にあったのですね どのあたりだったのでしょうか・・・・(実は矢野名曲堂は架空の店です・・・)


                                        ということで おしまい




おまけ
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帰りは ナンバに出て 自由軒の名物混ぜカレー 650円也を久しぶりに食べました・・・

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