なぎさ

アクセスカウンタ

zoom RSS 奈良坂あたりを散策その1  転害門から

<<   作成日時 : 2014/12/27 22:46   >>

トラックバック 0 / コメント 0

さて 転害門から奈良坂越えの街道については 以前 転害門と奈良坂越え京街道(大和街道)でさらりと触れました あの時は 転害門から一条通り(佐保路)の方へ行きました 今回は京街道へ・・


画像

                        東大寺境内から転害門 




画像

その昔は転害門(西門)までが東大寺境内であり 境内はぐるりを土塀で囲まれていましたが 現在は土塀もなくなり 民家も建て込んでいます




画像

転害門の案内版 東大寺の天平時代の唯一の遺構と書かれていますが 法華堂や正倉院もそうですよね・・・もちろん厳密に言えば東大寺で天平時代から変らずに残っている遺構はありません




画像

                  国宝  転害門  三間一戸 本瓦葺 切妻造 八脚門  

転害門は「佐保路門」「碾磑門」「手掻門」「景清門」とも呼ばれております 碾磑(てんがい)とは石臼のこと 東大寺の食堂で使っていたのかどうかわかりませんが 門の東に唐臼亭(食堂の近く)というのがあり そこにとても素晴らしい渡来の石臼(唐製?)があったからという そして転害とは 毎年10月5日の行われる手向山八幡宮の「転害会」(手掻会 てがいえ)のことで 門の基壇上には 神輿のお旅所としての鎮座石がおかれています 転害会がどこまでさかのぼれるかわかりませんが 平安時代中頃から鎌倉時代だとおもわれます(転害門は鎌倉時代に大きく修復されています) そこで最初は佐保路門や碾磑門と呼ばれ 後に転害門になったといわれていますが詳しいことはわかりません 

注・・・八幡神を宇佐から勧請した際の行列の様子を再現したものが「転害会」で 「手掻会」は 大仏開眼供養の導師 菩提僊那を転害門で行基が迎えた その時の手招きが手で物を掻くようであったので手掻といい テガイが害を転ずる「転害」に訛ったともいわれています


画像

                 明治時代の転害門  白壁ではなく板張りになっていますね



画像

      それともうひとつ 転害門の謎を・・・ 基壇にある盃状穴・・・これは一体なんなのでしょうか?

石に彫られた盃状穴は世界中でみられるもので(日本も全国でみられますが 東大寺では転害門だけ) 私もこれほど共通した行為が世界的(今のように伝達手段がない古代に)発生していることに興味があるのですが わからないことが多いですね 転害門の盃状穴は 鎌倉時代以降のものだということだけわかっています いつ だれが なんの目的で どうしたのか 皆目わかりません 転害門だけに関していえば たぶん西に面している門であり 西方浄土や黄泉の出入り口とかで 出産や死に関するなんらかの信仰が行われていたのでしょう 今はあたりまえのように社寺仏閣に出入りしていますが 昔は庶民はそう簡単には格式の高いお寺などには立ち入れなかったのです 閉じられていた転害門の扉がいつ頃外されたのか・・・・ 


画像

               1300年の歴史の謎と秘密を知っている 転害門の柱






                                奈良坂あたりを散策その2 般若坂へ つづく




テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
奈良坂あたりを散策その1  転害門から なぎさ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる