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zoom RSS クレオパトラとエジプトの王妃展 国立国際美術館

<<   作成日時 : 2015/11/20 02:07   >>

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さて ここ大阪では 来る22日 大阪市長 府知事W選挙を控え・・・ちょっと やりすぎた連中と まったくなにも考えていない連中との最終戦・・・これが全然 盛り上がっておりませんね  私は政治向きのことに関しては よくはわかりませんが 大阪を盛り上げるなら まず ユニバーサル スタジオ ジャパン いわゆる USJですが あれになぜ オオサカがついていないのか ユニバーサル スタジオ オオサカ だろう・・いや ゴロが悪いからユニバーサル スタジオ ジャパン オオサカ・・ USJOだな・・と名称を変えるところから始めないとだめじゃないかと思うのですがね(笑) 

というわけで 今回は大阪です   
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                   クレオパトラとエジプトの王妃展   国立国際美術館
                                       10月10日(土)〜12月27日(日)


中之島 国立国際美術館へ 行って来ました
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                       本日 中之島は よい天気です


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                           国立国際美術館
  
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前回 国立国際美術館に 来たのは ルノアール展 イレーヌ・カーン・ダンヴェールを観に来た時以来ですから 5年ぶりですか・・・そんなにご無沙汰とは感じなかったのですが 歳を取ると月日のたつのが早いですね

さて クレオパトラとエジプトの王妃展ということで 世界中の博物館や美術館から 関連品を寄せ集めて来ています これは 企画展として このリストの品で 定期的に世界中を回っているようです 



エジプトの王妃ということで よく知られた 3人の王妃(ハトシェプスト ネフェルトイティ ティイ)が中心に それとクレオパトラ(7世)です・・・それ以外の王妃たちの関連品も多数ありました



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                王妃ハトシェプスト 前1492〜前1458年頃  アメリカ ボストン美術館蔵

若々しい姿で表現された王妃ハトシェプストの小型の彫像です 額にウラエウス(聖蛇)がついた長い髪の鬘を被っています この像は可憐で美しい女性らしさにあふれているため ハトシェプストが女王として権力をふるった時期より前 つまりトトメス2世の王妃であった頃のものと考えられています  肩に添えられた手の痕があることから 本来は王とペアの彫像であった可能性があります 男装の女王とも呼ばれる以前の彼女の姿を伝えるものです

ハトシェプストは トトメス2世の王妃ですが トトメス2世亡き後 自分の子ではない トトメス3世が大きくなるまで女王として君臨しておりました 女王になると 女であることを馬鹿にされないためなのか男装していたとも言われ 絶対権力を行使した 後 トトメス3世が権力を握ると よほどこの継母が気に食わなかったのか 存在そのものを抹殺されています・・・本当のところはどうかわかりません   それとあの 生まれてすぐにナイル川に流された 旧約聖書のモーセを助けて 育てたのがハトシェプストだった・・なんて言われていますね  


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   アメンヘテプ3世の王妃ティイのレリーフ  前1388〜前1350年頃  ベルギー 王立美術歴史博物館蔵

王妃ティイは アメンヘテプ3世の寵愛を受けた正妃で アメンヘテプ4世の母です この肖像は かつてエジプト南部のテーベ西岸 アル=コーカ地区にある王妃の家令を務めたウセルハトの墓の前室奥壁に施されていました 額には上下エジプト王冠を被った2匹のウラエウス(聖蛇)がついています 頭上には日輪をもつコブラが取り巻いた台座に二枚羽根飾りをもつ王冠を戴き 欠けた二枚羽根の部分は現在も墓の壁に残されています

ティイは エジプト人ではなく メソポタミア ミタンニのフルリ人だったとされています エジプト王の王妃にはなれませんがエキゾチックで エジプト人にはない魅力があったのか アメンヘテプ3世に愛され 王妃になっています あのツタンカーメンは 彼女の孫になり ツタンカーメンの後に彼女の実兄(アイ)がファラオになっています このレリーフは 約100年ほど前に ウセルハトの墓の壁から削り取られて ヨーロッパに持ち出されたものです ほんとに酷い事をしてますね   


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          王妃(ネフェルティティ?)の頭部  前1351〜前1334年頃  ドイツ エジプト博物館蔵

写実的な表現をもつ王妃の頭部です アメンヘテプ4世は アクエンアテン(=アテン神に有益なもの)と名前を変え メンフィスとテーベの中央に位置するアマルナに都を遷し 太陽神アテンを唯一神とする「アマルナ時代」という独自の時代を築きました この時代に 伝統的な表現とは異なる ありのままの姿を表す写実的な美術表現が誕生しました この像には銘文がないものの アクエンアテン王の改革を支えた妻 王妃ネフェルトイティのものと考えられています

ネフェルトイティは 有名な人物ですが 実際にはよくわからない謎の人です 父親は先ほどのティイの兄アイ(ケプルケプルゥラー)だとする説と ミタンニの王トゥシュラッタの娘タドゥキパだとする説 いやいや アメンホテプ4世の2番目の王妃キヤだとする説があります ネフェルトイティの死後 すぐに 彼女に関するものが意図的に抹殺されています なぜなのか これも謎になっております  

ネフェルトイティといえば
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                ネフェルティティの胸像   紀元前1345年? ドイツ 新博物館蔵

古代エジプトの至宝の一つですね 1912年 アマルナのトトメスの工房跡地から発見されたものです これもまたヨーロッパに持ち出されたました もちろん これは今回の展示品に入っているわけがありません ドイツはエジプトに返還する気もないし 他の国に展覧する気もないみたいです   さてネフェルティティとは 美しい人が来たという意味だそうで やはり 他の土地からやって来たのかも知れません 私には美人?とは思えないのですが・・・すいません


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                   クレオパトラ?  前1世紀中頃  イタリア トリノ古代博物館蔵

アレクサンドリアにあるクレオパトラ女王の暮らした王宮などは 後に相次ぐ地震や海面上昇によって海の底に沈んでしまいました そのため彼女に関わる作品はそれほど多く残されていません この彫像の巻き髪の表現やその制作技術はプトレマイオス朝時代の特徴をよく示すものと考えられています クレオパトラ女王は「絶世の美女」としてさまざまな逸話が伝えられていますが 実際は美しい声が魅力で 7ヵ国語を堪能に操る聡明な女性だったようです

クレオパトラ(7世 BC69〜BC30)はプトレマイオス朝最後のファラオです この像が確かに あのクレオパトラかというと・・・よくわかりません  クレオパトラではないかと言われる遺物がいくつかありますが どれも推測の域を超えていません 

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                   クレオパトラ?  前51〜前30年  ヴァチカン美術館蔵
こちらの像はローマで出土したもので クレオパトラの像として 代表的なものですが これも決めてにかけます 上の像と比較しても明らかに違いますよね クレオパトラではないかとされる像はどれもみんな特徴が違っています         

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       クレオパトラの銀貨【裏はアントニウス) 前51〜前30年   古代オリエント博物館蔵
クレオパトラ(7世)で 間違いがないという像はこの銀貨の像ぐらいしかありません                 



クレオパトラといえば 
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                   カエサル  前27〜前20年頃  ヴァチカン美術館蔵
  
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                   アントニウス  1世紀頃  ヴァチカン美術館蔵

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                   オクタウィアヌス  前30年頃  大英博物館蔵

クレオパトラを巡る 3人の男たちの像も展示していました まあ これはお約束ですからね(笑)  親兄弟たちとの権力闘争に敗れ 一時王位を失ったクレオパトラはローマの権力者カエサルに接近する カエサルは彼女の魅力に心が動き 彼女を援護し 再びエジプトの女王に復活させる クレオパトラを子供と共にローマに呼び 一緒に住むカエサルであるが 彼女とは愛人関係で結婚もしなかった 彼は彼女を政治的に利用したに過ぎないとする説もあるが クレオパトラの方が利用していたように見えますが・・

紀元前44年にカエサルが暗殺されるとクレオパトラは カエサルが自分たちの子供のカエサリオンではなく 養子である オクタウィアヌスを後継者としていたので 今度はアントニウスに接近しますが アントニウスは掛け値無しに マジでクレオパトラの虜になり彼女と運命を共にする

アクティウムの海戦で 何故かクレオパトラは勝敗が決まる前にアレキサンドリアに撤退 これを追ってアントニウスもアレキサンドリアへ もちろん オクタウィアヌスが勝利 そこでアントニウスはクレオパトラの死を告げられる しかし これは誤報 そうとも知らず彼は失意のうちにクレオパトラの後を追うかたちで自殺 クレオパトラの腕の中で死んだとも言われています クレオパトラはその10日後 オクタウィアヌスへの降伏を受け入れず 毒を飲み自殺しました(コブラに噛まして死んだということになっていますが これだと相当酷い死に方になります) どうしてアクティウムの海戦で 離脱したのか これはオクタウィアヌス対アントニウスの戦いではなく ローマの派閥闘争であり たとえアントニウス側が勝っても エジプトの女王である自分を カエサリオンと同様に ローマは受け入れないと感じたからではないか・・・女の感ですな 

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      クレオパトラの死 アッキーレ・グリセンティ  1878〜1879年  イタリア ブレシア市立美術館蔵                   
というわけで 今回 180件ほどの展示品が ありましたが 本家本元のエジプトからは一つもありませんでした


                                                       おわり

おまけ
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    お腹がすいたので お昼は近くにある ダイビル(大阪ビルヂング)へ 薬膳?ランチカレーを食べに行きました

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                             ダイビル内の天井 

ダイビルはあの内藤多仲(1886〜1970)が設計した 大正時代の建物 内部は改装され 1・2階はオシャレなダイニング・レストランなどが入っています





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