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zoom RSS 旧東海道(鎌倉街道)を歩く 三条粟田口から蹴上  その1

<<   作成日時 : 2016/10/21 01:58   >>

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 あまり 知られていない旧東海道を 京都三条粟田口から 蹴上(実際は蹴上まで歩けないのでその手前)までをぶらりと歩いてみましょう


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     近世東海道の起点 京三条大橋粟田口

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          一般的に東海道(三条街道)となっている 三条大橋から蹴上に延びる道 

現在 東海道となっている道(三条大橋から東側の三条通)は明治時代から拡張を繰り返して広い道になっていますが 江戸時代までは 三条大橋から西側の三条通並みの道幅でした 京内から三条大橋を越えて直線で蹴上までの道筋を整備したのはいつ頃で 誰であるかは詳しくわかりません ただ 岡崎にあった法勝寺が 1560年から1590年の間に廃寺になり取り壊されていますので この間に信長や秀吉ら有力な者によって 軍隊が通りやすい あるいは 馬揃えなどを誇示するために直線道が整備されたかもしれません・・ね 

さて ここでさらっと 京都からの東海道のおさらいを 
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                    日本古代道路の復原的研究 木下良

古代 平安京の時代 五畿八道の東海道の起点は羅城門 羅城門から出ると 南へ少し下り 東西の大路に行き当たり 東へ 鴨川を渡ると今度は北は向かう そして 現在の粟田口あたりで 再び東へ・・・というルートだったという しかし こんなややこしいルートを通らなくても 庶民レベルというか プライベートレベルでは 二条通の東端あたりで鴨川を渡り 直接に粟田口へのルートが早くからあったようです 東山あたりに人々が住み 寺院や探題ができると鴨川にも早くから橋が複数架かっていたと思われます


ということで さっそく 鎌倉時代西暦1200年?にタイムスリップして旧東海道の起点へ行きましょう まず 京内 二条通を鴨川まで 古代の鴨川はいざ知らず 平安遷都以降 鴨川も整備を繰り返しております もとは 京都盆地を北から南へ 洪水で氾濫するたびに扇状に複数流れる川だったようですが 平安時代から度々改修されてきました 現在の鴨川の姿にほぼなったのは昭和10年の水害の後の大改修です もちろん 平安 鎌倉時代は川幅は今より広く 川原が広がりその間を幾筋かに分かれて流れておりました 普段は徒歩渡りが出来ましたが 牛車や荷馬車は渡ることができません そのため 二条や五条などメインストリートには 簡素な橋が架かっていたと思われます   

さて 二条通から鴨川に架かる木橋を渡ると 立派な寺院(六勝寺)が並ぶ築地塀が見えてきます この辺りのことは以前に記事にしましたのでそちらの方を・・・ 二条通の続きをそのまま行くと法勝寺の門前に当たります 1083年に建てられた推定高さ約80メートルとされる京のランドマーク 八角九重塔がひときは目を引きます 京から旅立つ あるいは帰ってくる人の見送り出迎えもこの門前あたりで行われていました(八角九重塔は1208年に焼失)

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                       法勝寺 八角九重塔復元図  京都大学      

この法勝寺門前で京に別れを告げて 門前を南へ行くと もうこの辺りは粟田口と呼ばれていました 古代の粟田氏が住んでいたからと言われております 粟田口の口は 後代 京の七口から・・・ 


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門前を南へいく古道はどうなっていたかわかりませんが 現在の神宮道を南へ 三条通りを越えて 旧白川小学校の校門跡に粟田口の案内版があります

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粟田口は 三条通の白川橋以東 蹴上附近までの地名 平安遷都以前から粟田郷と呼ばれ粟田氏が本拠としていた 遷都後は,東海・東山・北陸三道から京都への入口として交通の要衝となった 京の七口の一つで 三条口・三条橋口・大津口ともいわれた 近世には 東海道五十三次の終点近くとして賑わった 平安末期以来この附近には刀鍛冶が住み また陶磁器粟田焼の産地として知られた

粟田氏といえば 遣唐使で有名な粟田真人(?〜719)ですな さて この辺りが旧東海道(鎌倉道)の起点となるわけですが 私としては もう少し鴨川寄りに戻って・・・

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この大将軍神社辺りを 起点としたい 大将軍神社というのは 詳しい説明は省きますが 平安京遷都のおり 桓武天皇が京外四方四隅東西南北に 京城鎮護 魔除けにと祭祀したのが起原といわれておりますが まったく根拠がありません この大将軍神社も 京城の東にありますが 黒谷にある岡崎神社も 桓武天皇 延暦十三年(七九四)長岡京よりの平安京遷都に際し王城鎮護の為平安京の四方に建立された社の一つで 陽のいずる都の東(卯の方位)に鎮座する事から東天王と称した としています 

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大将軍とは 日本古来の神様ではなく 中国からやって来た 星の神様です 日本の陰陽道と結びつき 安倍晴明などの陰陽師が活躍しだした平安時代中頃からが こういった鎮護社が出来始めたのではないでしょうか・・ね 

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境内には 東三条社が祀られています この付近に藤原 兼家(929〜990)の邸宅(別宅?)があったからですが 兼家といえば 摂関政治を確立し 東三条殿(二条南西洞院東)に住んでいた人ですが ここに東三条殿があったのではありませんよ 誤解のないように  

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                         樹齢800年?の大銀杏
平家物語や源平盛衰記に源頼政の鵺退治の話があります 夜な夜な 東三条の森から 内裏に鵺(頭が猿 胴体は狸 尾は蛇 手足は虎)と呼ばれる妖怪?がやってくるという有名な話ですが この東三条の森が この社の森(後世 鵺の森と呼ばれる)と言われています まあ 藤原氏の摂関政治は 武士からみたら 鵺のごときものだったのか(笑)・・  

さて 古代 羅城門を起点にした東海道が鴨川の左岸を北上(法性寺大路?大和大路?)して 三条粟田口で東に折れる場所が この兼家の邸宅あった大将軍神社辺りです 平安遷都以来 次第に交通の重要地になってきましたからね 兼家も家を建てたり 岡崎から大将軍神社が勧請されたりしたんでしょうね 

ということで 私はここを旧東海道(鎌倉道)の起点とします 私のこの意見にはかの足利健亮先生も異存ないと思います・・よ(笑)

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           ということで 早速 大将軍神社の前から出発です

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                  路地のような旧道を行きます


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   すぐに 東大路通 これを渡りますが 信号がない しかたがないので 三条通まで迂回します


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         以前 明智光秀の首塚でも紹介しました 古川町商店街のアーケードを渡ります

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古川町商店街 平日は閑散としておりますね この商店街の道は 江戸時代以前は北で若狭往還(鯖街道) 南は東山知恩院とつながっており 昔は東山のメインストリートの一つとして人の往来で賑わっていました


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                 古川町商店街を抜けると 白川が見えてきます


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                白川を渡ります 橋の名は どいのうちはし 

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どいのうちというのは 秀吉が築いた 御土居の内ということですが この辺りには 御土居は築かれてはいませんね 京内が東に移動するに伴い この白川までが京内 つまりどいのうちということでしょう 


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               白川を過ぎると 粟田口 古道は静かな住宅地の細い道

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        やがて 道は京への侵入を阻む?ためか 鍵型に曲がっています

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                   往年の古道らしく 地蔵堂


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                      道は急角度で曲がりくねってます


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徐々に道は登り坂になっております 阿仏尼(?〜1283)の京から鎌倉までの道中記である十六夜日記の東下りで あはだぐちといふ所より車はかへしつ とあるのはこの辺りでしょうかね 当時はもっと急坂で でこぼこしていたのでしょう 人が乗る牛車も限度?


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