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zoom RSS 2016年NHK大河ドラマ特別展「真田丸」 大阪歴史博物館

<<   作成日時 : 2016/11/13 12:05   >>

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さて お待たせいたしました 前回の続きからです 大阪歴史博物館 6階の特別展「真田丸」へ行きましょう


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                         真田信繁肖像画  高野山 蓮華定院蔵

真田信繁(幸村 1567?〜1615)の残された肖像画として有名なものですね 高野山 蓮華定院というのは 関ケ原の後 真田昌幸と信繁父子が蟄居した所です あれ?九度山じゃないのかと言われますが 当時高野山は女人禁制 信繁の正室竹林院その他 真田の女性たちが高野山に行けず 九度山に留まった 男所帯の高野山では女性たちがいなかったら何かと不便でしたでしょう(笑) 後に許されて 昌幸と信繁親子の方が九度山へ移ったのです

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堺 雅人(1973〜)演じる真田信繁ですが 肖像画を見る限り こんな甘いマスクはしていませんな 武田氏に属していたとはいえ そこは独立心旺盛な戦国武将 眼光鋭い強面の方だったのでしょうか

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                    左京宛 真田信繁書状  高野山 蓮華定院蔵

九度山で蟄居生活を送る信繁が 左京何某という人物に宛てた自筆の書状です 「この壺に焼酎を詰めてもらいたい 壺の口はよく締め、その上に紙をはっておいてください 知らせがあれば取りに行かせます」と書いてあり 蟄居中の信繁の倹しい生活がうかがえる貴重な手紙であるとのこと こうやって 協力者たちへ手紙を書いて助けてもらっていたのでしょう 以外と世の中の情報は掴んでいたのかもしれません

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                     大坂夏の陣図屛風  岐阜市歴史博物館蔵               

慶長20年(1615)5月6日と翌7日に繰り広げられた大坂夏の陣最後の激戦を描いたもの 右隻上段には7日の天王寺での戦いで越前兵を相手に奮戦する真田信繁隊の姿を 下段は前日6日に玉手山で大軍の徳川勢に取り巻かれた後藤基次隊を、左隻下段には大坂城に侵入する徳川勢と迎え撃つ大坂城内の兵の戦いを描く信繁はこの7日の戦いで討たれて死去した  大坂の陣屏風はいくつか現存していますが 大阪城天守閣蔵 黒田本 重文 が有名ですね  信繁の最後に関しては 真田幸村(信繁 ) 討ち死にの事 茶臼山〜安居神社 天王寺界隈  をみていただくことにしましよう




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               某条書案 前欠 島津家文書  国宝  東京大学史料編纂所  

大坂落城後 薩摩藩の島津家久は上洛し 徳川家康に戦勝の祝儀を述べた 6月11日付で、その家久と思われる人物が、国許に宛てて戦いの顚末を伝えたのが本書状 切腹した豊臣秀頼以下 城内で死去した人物のリストもあり、そこには信繁の子「真田大介」の名が見える 信繁を評した「真田日本一の兵 いにしへよりの物語にもこれ無し」という箇所はあまりにも有名 これはあくまでも国元に宛てたプライベートな手紙ですな 島津にとっては関ケ原の因縁もある 徳川を追い詰めたというこで 真田を・・徳川への嫌味も込めて・・・日本一の兵と称しています


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                     伝真田幸村所用  采配  越葵文庫蔵

本物かどうかわかりませんが 信繁を打ち取った 越前松平忠直家臣 西尾仁左衛門尉宗次が手に入れ 松平家に献上されたもの 持ち手の竹が黒漆塗りの立派なものです 房のところに血が付着しており 幸村血染めの采配として伝わった                   


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      毛利勝永所用  陣羽織緋羅紗地大に渦巻文様切付陣羽織  高知県立高知城歴史博物館蔵                         
毛利勝永(森吉政 1578〜1615)は 小倉城主の父 森吉成(?〜1611)とともに関ケ原で西軍に属したため 後 土佐の山内家預かりの身となる 大坂の陣が始まると 豊臣方から誘いが来るが 勝永は徳川に味方すると偽り 土佐を出るその時に残して置いて行ったのがこの陣羽織である 

真田幸村に比べると 知名度がかなり低いのがこの毛利勝永ですよね しかし 大坂夏の陣での活躍ぶりは 実は真田隊より凄かったのです 秀頼から幸村同様信頼され 約5千の兵の大将として 幸村 後藤 又兵衛らとともに鬼神の戦いを行いました 道明寺の戦いで後藤 又兵衛を失った翌日 真田隊は家康本陣に突入します すでに大坂城内の内通者朝比奈正成から 真田幸村が本陣に総攻撃をかける情報を得ていた家康は何するものぞと油断していた  鬼神の働きで本陣から家康を追い払った幸村もここまで 数に劣る真田隊は 次第に追い詰められ 幸村は撤退 安居神社で打ち取られる 一方の毛利隊は 本多忠朝 小笠原秀政 忠脩父子と大将級を打ち取り その威勢に乗ったまま秋田実季隊を打ち破り 立ちはだかる各東軍隊を撃破して 家康本陣へ迫る 真田隊から虎口を脱してほっとしていた家康の前に突如現れた毛利隊 家康は討ち死にを覚悟した・・がやはり数に劣る・・毛利隊も真田隊と同じく撤退するが 毛利勝永は襲いかかる藤堂高虎隊を見事に撃退しながら 大坂城内に帰還して 秀頼と運命をともにする 豊臣秀頼の介錯をしたともいわれています 毛利勝永はこの戦いで 銀の輪貫の前立の兜をかぶり 秀頼に賜った錦の陣羽織を身につけていたとされています 馬上での見事な采配をみて 敵将でもある黒田長政が あの若輩供が 立派になったものよ と感嘆したという


今回の真田丸展ですが NHK大河ドラマ特別展と銘打っていますが どこかの展覧会のような ドラマの衣装とか小道具とか出演者のパネルとかがあるわけでなく・・・そこを期待して行かれた方は残念でした・・・ガチガチの硬派の展示内容です

さて 肝心の真田丸ですが 一体どこにあったのでしょうかね どういうものだったのでしょう この展示会では 真田丸の絵地図が出展されていました  

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                大坂真田丸加賀衆挿ル様子  永青文庫蔵           

大坂城最外郭の防御線惣構の南外側に張り出すようにU字状の真田丸を描く 真田丸内には「真田左衛門」(信繁)ほか真田隊の武将の名と、真田氏当主の居場所を示す黒四方の旗が描かれる 図の下方には冬の陣で真田丸攻めの中心となった前田利常隊の武将の名前が記されている 冬の陣直後の現地調査での知見が反映され、現在痕跡を残していない真田丸の実態を知るうえで数少ない貴重な図


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                   大坂御陣真田丸之図  前田育徳会蔵

この絵図は今まで知られていなかったもので 今回初公開  大坂城下の南端を区画する堀「惣構」に面した門と土橋でつながった半円形の曲輪として描かれている 周りを囲む空堀の中に柵を設け 堀の周囲に「ヒシ(まきびし)」をまいて防御を固めた様子が細かく描写されているほか 真田丸と前田軍の陣地との距離が「百八十足」だったことも記されている


真田丸に関しては 私も小学生の頃に 学校の郷土史クラブに入っておりまして 研究発表として豊臣大坂城の範囲(城の縄張り復元図作成)」とともに現地調査しました 


これは その時資料として活用した 明治20年(1887年)内務省発行 大阪実測図です この地図には 今はほぼ消滅している・・・古絵地図には描かれている・・・ 空堀の跡が 右上から左下へ斜めに存在しています また 真田丸前方の堀?の跡らしい地割の跡もあります ほぼ 真田丸は字カイト 字真田山と記されている赤丸のところかと思います 現在そこは 明星学園のグランドになっています 発掘調査出来ないかね

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                   極秘諸国城図  大坂 真田丸  松江歴史館蔵

今回 展示はされていませんが 今年の7月に真田丸の姿を描いた絵図が 松江歴史館(松江市)が所蔵する「極秘諸国城図」の中に新たに見つかったと発表されましたね  今まで知られている真田丸の絵図は大多数が前田家の「真田丸之図」のように半円形に描かれるが 松江の絵図では四角に近い 四角い真田丸は広島藩主・浅野家に伝わった「諸国古城之図」の「摂津真田丸」が知られるが 松江の絵図には広島のものでは省略されている小さな曲輪がみられるなど 細部がより丁寧に描かれている そして 真田丸を半円形に描く絵図では大坂城と橋でつながっているのに対し 冬の陣から数十年後の真田丸を描いたとみられる松江の絵図では 大坂城との間に田畑になった広大な惣構堀跡が描かれ 真田丸が半ば独立しているように見える・・・ そうですか いよいよわからなくなりましたね 真田丸は丸というように 大坂城の惣構の一部として機能したのか それとも まったく独立した出城(砦)だったのか・・・

追伸・・・若い人たちの集まりの歴研のKくんから 今 真田丸の発掘をやっていると連絡がありました 真田丸発掘推進協議会が・・これ 奈良大の千田君のやっているやつですね・・現在知られている 真田丸推定地よりさらに南を発掘中 この辺りも当時の地表面が高くなっているので 真田丸の内側と断定したらしい  実際の地形と明治時代の地図から 真田丸の南限(堀の位置)は特定できますが 掘のギリギリまで広かったというわけですな そうなると 真田丸はかなり大きな 軍事施設?となるわけです 改めて徳川にとってはかなり厄介なものだったのでしょう                                
  

大阪実測図の下の方にある 味原池もよく 大坂の陣の復元地図に載っていますが 郷土史家の間では 当時はなかった とか 真田丸を造る際に掘った跡だとか言われています また 現地には 有名な幸村の抜け穴といわれているものがありますが これも 明治時代に陸軍が堀ったものとも・・・・・


さて 真田丸展を見終わってから ふと 思いました もう 今のこの辺りに 当時のものが残っていないのかと いやいや ありましたよ 大阪歴史博物館のすぐ近くに 
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           大阪歴史博物館前の本町通にある 史跡大阪舎密局跡クスノキの大木です


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明治2年(1869年)5月 この場所で我が国最初の理化学学校「舎密局」が明治政府により開設されました 後に大学として組込まれ大阪開成所となり 後の京都大学(第三高等学校)に受け継がれました 銅像は旧開成所のオランダ人化学教師ハラタマで 教頭としてここで教鞭をとりました クスノキは以前からここあり 樹齢400年とも500年とも言われています つまり 大坂の陣を 真田幸村を知っているわけです・・・ね?


                                                   おわり 


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