東高野街道 旧道探索 洞ヶ峠は今

今回は 以前にも紹介した 東高野街道の洞ヶ峠付近の旧道探索です
東高野街道の洞ヶ峠は歴史的にも有名ですが 
史蹟としての保存も整備もされていません
このままでは 地名だけが残るだけ(現在もそうだが)になりそうです
跡形も残らなくなる前に 今一度現地を探索してみましょう


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まずは 峠の京都側の登り口からです 
ここは 美濃山の峠を越えて長尾へ至る山根街道(河内道)との分岐があります 八幡からまっすぐに来た東高野街道(八幡道)は ここで右に折れて 洞ヶ峠の急坂を登ります  写真奥の道は山根街道です 高野街道は右にまがります




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八幡方面の現在の東高野街道 旧道は八幡道 本来はここから峠を越える道が 高野街道となりますが それは高野山を目指す人たちの呼び方で 一般には大坂に向かえば大坂道 京都に向かうと京道と呼ばれていました そしてここから八幡へ向かう道は 石清水八幡宮の参拝道となります




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この分岐のところには三宅安兵衛銘の道標(昭和2年)があります これは 円福寺への案内の道標です(現在は 破損して撤去 八幡市が保管)

洞ヶ峠の高野道からすぐ西のところに円福寺があります 明治18年の地図を見ると分岐の手前に高野道とは別に円福寺に至る道が 細く書かれています これが現在拡張されていて 高野道と間違えている人が 多い道です(実際 枚方文化財研究所発行の地図もこの道を東高野街道としている)

「やわたの道しるべ」八幡市郷土史会によると「京都三宅安兵衛依遺志建之」と碑文にある 三宅安兵衛氏は1842年(天保13年) 若狭小浜の寒村で生れ 幼くして幕末の京都へ奉公に出て やがて帯織物業で成功して一代で財をなした 立身出世の人です
1920年(大正9年) 享年79でなくなる前の年 家業を継いでいた長男の清治郎氏を呼び 金1万円を渡して「公利公益に使え 用途は一任する」と遺言したと伝えられる 遺言によって 清治郎氏は旧蹟案内と道標の建碑を決めて 1913年(大正12年)から1930年(昭和5年)の8年間にわたって南山城一帯を中心に 京都帝国大学教授濱田 耕作(1881~1938)の協力を得て 全数400基におよぶ建碑を実行した 費用総額は2万円(現在の約1億円)




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三宅安兵衛銘の石碑は ほんとに多くて この付近のものは ほとんどがそうです この 高野街道とは別の拡張された円福寺への道の途中 幣原道との分岐)にある「涙川舊跡」の石碑(昭和3年)もそうです 

平安時代の初め小野頼風という男と深い仲になった女がいました しかし 女は頼風に他の女性がいることを知って 悲しみのあまり川に身投げしたという その女が脱ぎ捨てた山吹色の衣が朽ち果て そこからオミナエシが咲いたという(女郎花伝説)

その 身投げした川が涙川だそうで もともと 高野道沿いにあった(今は暗渠)この 石碑も高野道にあったのだけど どうしてここに?




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さて 峠の入り口に戻ります  写真の右側が 拡張された円福寺への道左が 東高野街道ですが もちろん旧道は消滅しています



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消滅した旧道 一気に峠に向かって登っています


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宅地造成でこのあたりの地形も変わっています 階段の上あたりを高野街道が通っていました  この付近は 字を安居塚というので 古墳でもあるのかと調べたら ありましたよ三宅安兵衛さんの石碑で「洞ヶ峠古墳」というのが峠付近に建っていた (国道1号線の開通で撤去 現在 八幡のふるさと学習館で保管)


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住宅地を登りつめると なんか 旧道らしき道が・・・東高野街道か!と思いきや違うんですね 旧道は峠をまっすぐではなく 西よりにカーブしています



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先ほどの階段上のすぐ横に住宅と住宅にはさまれて 東高野街道の旧道が・・・


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細くなって残る旧道を進みます わずかに 登りになっています昭和44年の地図で確認すると間違いなくこの道が 旧高野道です 洞ヶ峠頂上は近いぞ



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しかし しばらくいくと 行き止まりです もう頂上はすぐそこですが・・・・



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バリケードの横を抜けて 先にすすみますが 草がぼうぼうで 見た目では道がはっきりしません



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道としての段差があるので 旧道とわかります もちろん ここは地道になっています



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ついに 完全に行き止まりになりました 横にNTTの無線中継塔が建っています このあたり が洞ヶ峠の頂上です  以前はまだ この先に旧道が 残っていたのですが 幹線道路の建設で峠が削られて 完全に消滅しています

ここへ来ればわかりますが 筒井順慶(1549~1584)が 1582年の秀吉と光秀の天王山の戦いで 双方から誘いを受けていたにも関わらず ここで戦の日和見をしていたといわれていますが ここから 山崎の地はおろか 天王山すら見えません ここに陣を構えて 筒井順慶や細川藤孝らの軍勢参加を待っていたのは光秀の方だと書かれている本もありますが・・実際は筒井順慶は大和郡山城で籠城 光秀も京都で戦の準備に追われていました 秀吉のあまりにも早い動きに合戦間際になって男山周辺に配置していた軍勢を山崎へ移しています つまり 洞ヶ峠には誰も来ていない


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道路建設で削られた 洞ヶ峠  以前 戦国時代を研究している知人を連れてきたことがありますがこの現状を見て 嘆いていました・・・・


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東高野街道 ルート地図 その1



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