明治維新150年 NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」を観に行く 大阪歴史博物館

さて こちら上方では 地震あり 集中豪雨あり 台風ありと何かと世紀末(平成最後ですね)様相を呈しておりますが みなさんの地方はどうでしょうか

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           明治維新150年 NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」  大阪歴史博物館 17日まで   


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ということで 大阪の歴博に「西郷どん」を観に行きました  本日はあいにくの雨模様 大阪城も湿っております



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上方は いつ起こるかわからない南海トラフト大地震の為か 2025年の万博誘致は全然盛り上がっていません

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で・・歴博に到着 雨の為か 人はまばらです 外国人の団体がいました 西郷隆盛は外国でも有名なのか?

歴博は前回の「真田丸」以来です 今回もN〇K大河ドラマとタイアップですかね 去年の直虎はやらなかったけど・・・  しかし この展示会ポスターは笑えますね 本人の写真が現存?していないので 描かれた全ての肖像画が 「似顔絵」なのはしょうがないですが・・




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                 西郷隆盛肖像画  石川静正  個人蔵   

西郷隆盛(1827~1877)は 言わずと知れた 維新の英雄 後に太政官参議 陸軍の初代大将 元帥なりました 私は小学生の夏休みに帰省した時 日豊本線が鹿児島湾の際を通過・・ 桜島に最も近づく・・ 山際の中腹に「西郷隆盛蘇生の家」と 書かれた立て札を見つけて 西郷の生まれた家と勘違いしたことがあります 後日 西郷と月照が入水自殺を図った際に助け出されて介抱された 坂下長右衛門の家だったと知ります その足で実際の西郷の生家を訪ねましたが もちろん何も残っていません この辺りは下級藩士の宅地であったので 近くに大山巌や 甲突川を挟んで 大久保利通の生家がありましたが 何も残っていませんでした もう半世紀近く前のことです・・




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                       島津斉彬所用 大鎧   京博蔵  

下級藩士だった西郷はそのままだったら 地方役人のままでしたが 浦賀にペリーが来航し 攘夷問題で日本が騒然となる中 海外とも向き合っている薩摩もひとごとではなくなるわけで 西郷は攘夷問題の意見書を藩に出す これが第11代藩主島津斉彬(1809~1858)の目に留まり 斉彬の側に仕えるようになり 西郷の躍進となる



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                       天璋院所用 小袖  德川記念財団蔵

島津斉彬といえば 天璋院篤姫(1836~1883)ですね 薩摩藩9代藩主斉宣の孫として生まれ 斉彬の養女となり 後に近衛忠煕の養女として13代将軍徳川家定に嫁いだ人です この小袖は 近衛家の牡丹紋を後ろ身頃に3ヶ所 前身頃に2ヶ所 金糸駒繍で表している見事なものです 





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           大久保利通宛 小松帯刀書状 1866 重文  鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵      


しかし ながら西郷の試練は続きます 目をかけてくれていた斉彬が急死してしまいます 斉彬の意志を継ぎ奔走しますが 幕府の執拗な追求に 入水自殺を図ったり 島津久光とそりが合わず沖永良部島に流されたりします それをとりなして助けくれたのが 大久保利通と小松帯刀(1835~1870)です そして 西郷と大久保は 小松帯刀のもとで討幕 維新へと突き進んで行きます しかし小松は維新後すぐに亡くなります たいへん有能な人物でした もし小松が長生きしていたら 西郷 大久保の西南戦争が無かったかもしれません





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                 討幕の密勅  1867   鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵

大政奉還と王政復古を経て やがて戊辰戦争 勝海舟との江戸無血開城となり 幕府は滅亡 明治の世が始まります  この密勅は岩倉具視の発案により正親町三条実愛から 大久保利通に渡されたもので 薩摩藩の島津久光 茂久父子に対して すみやかに幕府を討つべきことを命じたものです 会場には 昨年福島県の霊山神社で確認された岩倉具視奉納の官軍の「錦の御旗」も展示してありました 





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               鹿児島県下英雄戦死之図  1877 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵

新政府の参議となっていた西郷は 1873年に征韓論(西郷は朝鮮に対して開国交渉)が裁可されなかったことで 板垣退助らとともに 政府を去り 西郷は鹿児島に帰る(明治六年の政変) やがて日本各地で士族たちの新政府に対する不満が高まります 鹿児島も例外ではなく このままこの士族たちを放置すれば 新政府に対して何をしでかすか分からないと感じた西郷は 私学校と呼ばれる陸軍士官養成を目的とした学校を鹿児島各地に設立し 彼らの育成に励みます 後に西南戦争の薩摩軍の母体になる私学校ですが 設立時の西郷の思惑はむしろ 士族たちによる新政府への反乱を防ぐというところにありました やがて 私学校の影響が大きくなると 新政府も見過ごされなくなり 大久保は 政府の密偵を派遣して調査に乗り出しますが これが私学校の生徒たちと新政府との間でもめ事になります 遂に新政府が西郷暗殺か という事態にまで発展してしまいます 西郷の気持ちとはうらはらに反政府色になってしまった私学校の生徒たちの暴挙を止めることもできなくなった西郷は挙兵を決意します 西南戦争は延べ7ケ月間に及びましたが 熊本城を落とせなかった薩摩軍はやがて圧倒的な政府軍の前に敗退 鹿児島に戻った西郷たちは城山に立てこもりますが 1877年9月24日 薩摩軍は最後の総攻撃をかけましたが 次々と討たれて逝きます  西郷も股と腹に銃弾を受けます これまでと別府晋介に介錯するよう促したあと 明治天皇がいる東の方角に拝礼し 西郷は自刃しました 享年49歳




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                       太刀 雲次  大阪歴史博物館蔵

1868年1月7日に島津忠義(薩摩藩12代藩主)より拝領したもの 西郷は数多くの刀を所持していますが 実は西郷は子供の頃に喧嘩の仲裁で右手に怪我をして その後遺症で上手く刀を握れなかったという話があります つまり剣の達人?じゃなかったのですね 西郷と言えば菊池氏 菊池と言えば同田貫ですが 西郷は同田貫を一本も持っていなかったみたいですね




                                              ということで  おしまい