熊野街道のことなど 八軒家浜をぶらり

八軒家浜(熊野街道起点)は小学生~中学生の頃に熊野街道や上町台地の歴史を調べた時以来 この辺りを歩きまわることなどなかったのだけど 今回 ウロウロしてみて随分様子が変わっているのに驚きました・・当たり前か(笑)
熊野詣は平安時代から鎌倉・室町時代にかけて貴人から庶民に至るまで盛んに行われ 「蟻の熊野詣」とも言われたのは有名ですね

さて ここで 藤原定家(1162~1241)の日記「後鳥羽院熊野御幸記(明月記から抜粋)」から後鳥羽院(1180~1239)の熊野御幸(1201年)を観てみます 注・・・後鳥羽院は生涯に28回熊野御幸を行っています


1201年10月5日朝早く 後鳥羽院と定家一行は から石清水八幡宮の 高良神社に…旅の安全を祈願‥御拝  定家は一足早く 淀川の八幡浜から船に乗り 淀川を下る 船の中で定家は昼寝をする 夕方に窪津に着く 騎馬で来た者たちや 後から着いた船の者たちが続々集まって来る 定家は先達(熊野修験者か?)に案内されて窪津王子に参拝する そうこうするうちにやっと 後鳥羽院の御船が到着 再度 窪津王子に御拝する 御経供養 里神楽などが行われてお祭り騒ぎになる 定家は今度は騎馬して 次の坂口王子へ先に行く ここでも同じようなことが行われる・・・ この日は天王寺(四天王寺)に泊まる



       みわたせば やまもとかすむ みなせがわ ゆうべは あきと なにおもいけむ     新古今和歌集

さて 京を出る後鳥羽院一行ですが ここでは 平安京(内裏)ではなく 上皇(院)の離宮です 解説書などには 鳥羽離宮とか城南宮とか書かれています 後の後鳥羽院が鳥羽離宮にあった城南寺で 承久の乱を企てましたね一応 水無瀬離宮とします ここで後鳥羽院は 陰陽師のト占により数日 精進を行い 出発の日が決まります 後鳥羽院のいでたちは これまでの上皇たちの熊野詣資料から立烏帽子 浄衣 白指貫袴 手甲脚絆で 足には草鞋履き 手には金剛杖を持っていたようです 水無瀬離宮の淀川を挟んで対岸が石清水八幡宮であり ここに八幡浜があります  高良神社は 石清水八幡宮の摂社で 石清水の下院を構成するほどの大きな社がありました ので徒然草ではありませんが 高良神社を八幡宮本体(上院)と勘違いしたわけではありません(笑) 当時は神仏習合 高良神社も奈良大安寺の行教によって建立されています ここで 出発に際して先達指導で旅の安全の祈願などが執り行われたようです  

八幡浜から船にのった定家ですが 昼寝していますね(笑) 時代は下りますが 江戸時代の三十石船は 伏見~八軒屋浜まで 夜中を約6時間…徒歩と変わらない速さでかなりゆっくりです・・で下りました 定家を乗せた船はトイレ休憩?を除けば何処にも寄り道しないので もう少し早かったかもね・・


画像

                  現在の八軒屋浜   後方に見える橋は天満橋


画像

                      八軒屋浜跡にある 熊野街道案内


窪津(渡辺津)は 後世の八軒屋浜付近です 付近というのは もちろん現在 地形が変わっていますし資料もなく 正確な場所を特定できないからです 古代の難波津もこの辺りというのが有力な説です 古代~中世の上町台地や淀川の地形の復元や 対岸の天満宮や九十九王子の伝承などから 近世の八軒屋浜付近が窪津でよいでしょう

注・・上町台地の地形を見ますと 高倉筋や御祓筋の石畳の場所が 急坂になっており その西側の高麗橋へ続く台地は緩やかになっております したがって 窪津浜も八軒屋浜ではなく 高麗橋付近にあったのではないかという説もあります ただ 緩やか地形というのは汀が遠浅になり 船着き場としては適していない やはり 八軒屋浜辺りの深く落ち込んでいる辺りに船を着けて 高麗橋辺りに汀を回り込んで台地をのぼったかもしれません 


画像

                        江戸時代後期の八軒屋浜


画像
    
    近世熊野街道 起点 八軒屋浜から 土佐堀通りを渡り 御祓筋の角に案内があります


さて 一足早く 窪津の浜に着いた定家ですが のんびりしていられません 後鳥羽院が到着するまでに色々準備がいりますね そこで活躍するのが 先ほどの高良神社でも活躍した 先達と呼ばれる人達です 早い話が 熊野詣の儀式や宿泊 食事 道案内などなど一切を取り仕切る 熊野三山で修行積んだ?修験者です 定家も先達に案内されて 最初の九十九王子である 窪津王子へ 先に参拝しながら先達たちから後鳥羽院が来た時の段取りなどの説明を受けて準備したりしました



画像

        近世 熊野街道の起点 御祓筋  石畳の急坂ではなく 緩やかな坂道になっています



画像

                      御祓筋にある 熊野街道の道標  



さて 現在の御祓筋は 土佐堀通から かなり緩やかな上町台地の坂道となっていますが明治5年の絵地図を観ると

御祓筋(オハライ通)の起点のところが 階段状の記号になっていますね そして その横の高倉筋(タカクラスヂ)も階段状の記号があります             



画像

現在の高倉筋には 江戸時代の階段状の石畳が残っています この石畳を下ったところに 八軒屋浜の船着き場があり ここも幅広く階段状の石畳があり淀川に接していました  



画像

                     八軒屋浜の船着き場 古写真



画像

  高倉筋の石畳を上から見たところ 当然ですが この下にあった八軒屋浜の石畳は埋められています 

近世の熊野街道に比定されている御祓筋も その起点は高倉筋のように階段状の石畳になっていたわけですが もちろん 定家が窪津に着いた頃にはありません(笑)  しかしながら 地形をみてみると 後世 秀吉が大坂城を築城した際に この辺りは堀の役目をするほど窪津浜から 急に上町台地がそそり立つようになっていたわけです  定家もこの上町台地のそそり立つ急坂を登って? 熊野九十九王子の1番目 窪津王子へ向かったわけですが・・窪津王子はどこか・・・



画像

                               坐摩神社行宮

正直なところ 窪津王子があった場所はわかりません ただ 窪津浜から上町台地の坂を登っていったところに 坐摩神社がありました 後に秀吉が大坂城を築城する時に 坐摩神社を船場へ移転させた その跡地に坐摩神社行宮が現在残っており 伝承によれば ここに窪津王子があったということです つまり 坐摩神社の中にあったのか または隣接してあったのかはわかりませんが・・・



画像


画像

                              神功皇后の鎮座石


画像


さて 定家たちは 後から着いた後鳥羽院一行たちと この辺りにあった?窪津王子へ 再度というか本式に 参拝します 熊野九十九王子の1番目 改めてここから熊野詣での道行きが始まるわけで 景気付でもないでしょうが お祭り騒ぎのように盛大に執り行われたようです


さて 定家はまたも 馬に乗り次の王子へ先に行き 後鳥羽院一行を迎える準備をします そうやって その日はようやく四天王寺に泊まる というのですが 定家たちはこの御祓筋を南下したのでしょうか 
画像

                         現在の熊野街道 御祓筋

結論からいいますと 秀吉が大坂城を築城したおりに この辺り一体を町割りをしていますので それ以前の旧道は消失しています それと同じく 王子のあった場所もわからなくなっています 王子があったと言われている推定場所を道筋にあてはめたのが 近世の熊野街道です 小学生の頃 定家たちが歩いた旧道を出来るだけ復元しようとしましたが・・全く痕跡がなくて無理でした(笑) 考えられるのは 窪津(八軒屋浜付近)から 上町台地の西側の台地上を地形に沿って各王子に立ち寄り 四天王寺まで南下していたと思われます 旧道が現れるのは 5番目の 阿倍王子からです  下級貴族の定家は 後鳥羽院一行の無理難題 理不尽なお役目の数々をこなしながらの艱難辛苦の熊野詣は始まったばかりです・・・


                                              おわり


おまけ
画像
                                         
    歴史と古道 歩いて学ぶ中世史 戸田 芳実  1992 人文書院

もっと深く 昔の熊野詣を知りたい方には 戸田先生の先駆的な研究本があります 私もこれを読んで 今のように 整備もされていない ガイド本もない熊野古道中辺路を 明治 大正 昭和の地図だけで歩きました いやあ~ 大変でした  だだ この本の中世熊野詣の研究部分は テキストに 藤原宗忠の「中御門右大臣の日記」(中右記)を使っています 中右記には肝心の京から和歌山(有田川)までの大阪の熊野詣の部分が抜けています 先生は旧熊野街道の復元にはあまり関心が無かったようです 残念